ルネッサンス

出典: Jinkawiki

2009年1月19日 (月) 02:00 の版; 最新版を表示
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ルネサンスは、「再生」を意味する語で、14-16世紀にかけて、古代ギリシャ・ローマ文化の復興を目指す、とくにイタリアでさかんになった文化運動を指す。

イタリア諸都市では、毛織物工業、地中海貿易や金融業などで富を蓄えた有力商人層が政治的にも大きな力を持つようになり、主要な都市国家での多くは、15世紀には事実上の君主支配となった。 アヴィニョンからローマに帰還した教皇も、不在中に荒廃したローマ市の再建に努めた。 16世紀には、ローマにブラマンテの設計をもとんしたルネサンス様式のサン・ピエトロ大聖堂が建設され、そのシスティナ礼拝堂はミケランジェロのフレスコ画で飾られている。 このように、市政の実権を握った実力者や、王、教皇、有力ギルと諸団体や裕福な市民が、イタリア・ルネサンス芸術の保護者となる。

ルネサンス期には、目に映る世界すなわち神の作った世界を出来るだけリアルに表現されることが追求された。 ブルネレスキが発見し、マザッチョが絵画に応用した線遠近法の手法は、アルベルティが1435年の「絵画論」で論じ、それをラテン語とイタリア語で出版したことで広まった。 彫刻でも、古典作品に倣って、調和とプロポーションは重視された。 建築では、古典古代の建築様式の復興が目指されたルネサンス様式が盛んとなった。 文学では、ペトラルカの「カンツォニエーレ」など古典作品に倣った詩や散文が書かれた一方で、ダンテの「神曲」をはじめとして俗語での著述も盛んとなった。 さらに古典文献の研究を進め、古典の教養を身に付けた人文主義者らの活動は、その後の思想の形成に大きな影響を与えてゆく。

しかし、諸都市間の対立と抗争は外国勢力の侵入を招いた。 とくに15世紀末から50年以上にわたってイタリアはハプスブルク家とフランス国王の精力争いの場と化した。 このような危険と混乱の時代を生きたフィレンツェ出身のマキャベリは1513年、「君主論」において「狐の鋭敏さと獅子の勇敢さ」を兼ね備えたイタリア出身の君主の登場を期待した。 カスティリオーネは、君主の宮廷に出仕する者の心得を説いた「宮廷人」を書いた。この作品は1528年に出版されて以降、各国語に翻訳され、ヨーロッパのベストセラーとなった。 時代は共和政治都市から君主制領域国家の優位へと向かっていったのである。

1559年にカトー=カンブレジ条約によって、イタリアにおけるスペインの覇権が確認されると、ヴェネツィアとローマを除いてイタリア諸都市の政治的独立は失われた。 それと共に、イタリア・ルネサンスもまた、力を失っていった。


ヨーロッパ史への扉  晃洋書房


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