樋口一葉

出典: Jinkawiki

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(1872―96) 日本の作家・歌人。本名、夏子。(奈津という説もある)。江戸が東京となり、明治と改元されてから五年目の1872年5月2日(明治5年3月25日)東京府第二大区小一区の幸橋内にあった東京府構内の官舎に誕生する。1886年に歌人の中島歌子に入門する。その後兄と父が次々に亡くなり、17歳で一家の生計を立てなければならないようになった。生活に困窮する中、小説家を志し1896年『たけくらべ』が森鴎外や幸田露伴から絶賛を受けた。しかし1896年肺結核のため、24歳で夭折。

 

目次

萩の舎に入門するまで

 夏子の誕生から半年足らずで一家は官舎を出る。その後も何度か転居を繰り返す。明治維新の変動に揉まれ、東京府の役人としても決して出世を望むことのできなかった元御家人の父、則義は、金貸しや不動産の売買や斡旋で収入を得ており、転居が多かったのは転売によって利殖をはかっていたからである。 

 彼女は旧派の歌人和田重雄に和歌の指導を受け、さらに進んで1886年(明治19)中島歌子の萩の舎に入門した。則義が、向上心のやまない娘のために知人に聞いて探してくれたのである。歌子は高崎正風の援助を受け、皇族を含め、貴族、上流階級の女性たちを門下に集めていた。ちなみに、歌塾は貴族上流階級の人々が世俗の嗜みとして半ば社交場の意味合いで通うものであったため、下級官吏の娘である一葉には場違いでしかなかったと言わざるを得ない。歌子も旧派の歌人で、その指導も旧派の伝統を受け継いでおり、したがって一葉の作歌もほとんど題詠による古今調の作品といってよいが、彼女は90年一時萩の舎の内弟子となったこともあり、その和歌での学習はのちの小説創作にも影響がみられる。歌作数も4000首を超える。田辺龍子(たつこ)(三宅花圃(みやけかほ))は同門。87年に長兄泉太郎、89年には父則義が死亡し、一時母子は次兄虎之助(とらのすけ)のところに身を寄せたりしたが、結局90年から、たき、一葉、くに(妹)の女3人で世帯をもつこととなり、本郷(現文京区)菊坂に移った。


小説家を志した理由

 一葉が17歳のときに父である義則が死去。それは大日本帝国憲法が発布された年であった。女性の権利がことごとく蹂躙されていた時代に、一葉は女ばかりの家の戸主として家族を養わなければならなくなった。そのため、生活費を得るために小説家になろうと発起したと言われる。


一葉の恋

 1891年4月、小説家として立とうと志し、東京朝日新聞の小説記者半井桃水(なからいとうすい)に入門。翌92年『武蔵野』に発表した『闇桜(やみざくら)』は、桃水の指導を受けた文壇的処女作である。一葉は桃水に惹かれていたのだが、その後桃水との仲を伊東夏子に疑われ、中島歌子に相談。桃水は一葉を妻だと吹聴していることを聞き、桃水への怒りを歌子に示し、そして自ら絶交を宣言する。これは一葉が当時の社会通念としての封建的な倫理観、結婚観にがんじがらめにされていることを表していると言われる。女子であれば貞操を守らなければならないという当時の結婚の考えに縛られ、歌子の前で桃水への怒りを示すことによって身の潔白を証明した。封建的な倫理観を庭訓としていた樋口家で育った一葉にとっては仕方のないことであった。しかし、一葉には桃水の親切さが忘れられず、またその後もときどき生活の援助を受けたりしていて、彼女は終生桃水に慕情を寄せていた。


小説家としての一葉

 1893年から『文学界』同人たち、ことに平田禿木(とくぼく)、馬場孤蝶(こちょう)、戸川秋骨(しゅうこつ)、上田敏(びん)らとの親交が開けた。彼ら同人はいずれも西欧文学に明るく、ロマン的で若々しい情熱をもち、一葉に新文学の刺激を与えた。一方、93年7月から翌年4月まで下谷龍泉寺(したやりゅうせんじ)町(現台東(たいとう)区竜泉)で荒物・駄菓子屋を開業、日々の商業に生活を賭(か)ける苦しさを体験し、町の子供たちの動きなどもつぶさに眺め、わがものとした。ここでの体験が、のち、名作『たけくらべ』を生んだ。

 1894年5月、本郷丸山福山町(現文京区西片)に転居。同年12月『大つごもり』を『文学界』に、翌95年1月から『たけくらべ』を同誌に連載し始めて、小説家一葉の開花時代を迎えた。この時分から没年の96年1月までは「奇蹟(きせき)の1年」などといわれる。この間に『たけくらべ』を完成し(1896.1)、去るものは日に疎いといわれる人情の不如意を描いた『ゆく雲』(1895.5)、淪落の女の激しい生きざまが読者の胸を打つ『にごりえ』(1895.9)や、当時の家庭における男尊女卑の慣習に抗議する『十三夜』(1895.12)、女が1人生き抜くために閉ざされた人生の打開を求めようとする『わかれ道』(1896.1)などを発表しているからで、これらはいずれも、この時代に生きる女性の悲しみを切実に訴え、いまなお読者の胸を打つ名作である。しかし、96年に入ってから彼女の健康は急速に衰え、『うらむらさき』(1896.2、未完)、『われから』(1896.5)などの作があるが、粟粒結核のため11月23日に没した。築地本願寺の樋口家の墓に葬られる(現在は杉並区和泉の本願寺)。一葉の生前に公刊されたのは、博文館「日用百科全書」中の一編『通俗書簡文』(1896.5)だけであり、小説を執筆したのはわずか5年間、作品数も約20編でしかないが、晩年の数編は、今日からすれば古風な文体ながら、それゆえにまた比類なき美しさをたたえ、長く読者に愛惜されて現代に及んでいる。また1887年以降没年までの膨大な日記は私小説風できわめて価値が高い。台東区竜泉に一葉記念館がある。

五千円紙幣

 2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の五千円券に樋口一葉の肖像が採用された。日本銀行券の肖像に女性が採用されるのは彼女が初めてである(女性の肖像としては、明治期の政府紙幣(政府が発行していた紙幣)に神功皇后が使われた例がある。また、二千円券の裏面の図柄には、紫式部の顔が描かれている)。1999年に男女共同参画社会基本法が施行されるなど女性の地位が法的に高まってから間もなかった当時、安易に女性を採用したのではないかという説もあるが、日本銀行は紙幣に使用される肖像の人物選定の基準について「明確な基準があるわけではないが、注意がはらわれている点はいくつかある。たとえば、1,極力実在の人物で、業績があり知名度も高く親しみやすいなど、国民から尊敬され日本を代表するような人物であること、2,偽造防止の観点から、簡単に複製できず、且つ人の目を引く特徴のある顔であること」と説明し、女性としての樋口一葉を採用したことについての詳細は明らかにしていない。だがしかし、樋口一葉の肖像が採用されているということは、人物としての樋口一葉がこの基準を満たしていると日本銀行が判断したことを意味している。


作品一覧

闇桜    明治25年3月

別れ霜   明治25年4月

たま襷   明治25年4月

五月雨   明治25年7月

経つくえ  明治25年10月

うもれ木  明治25年11,12月

暁月夜   明治26年2月

雪の日   明治26年3月

琴の音   明治26年12月

花ごもり  明治27年2,4月

やみ夜   明治27年7,9,11月

大つごもり 明治27年12月

たけくらべ 明治28年1月~29年1月

軒もる月  明治28年4月

ゆく雲   明治28年5月

うつせみ  明治28年8月

にごりえ  明治28年9月

十三夜   明治28年12月

この子   明治29年1月

わかれ道  明治29年1月

裏紫    明治29年2月

われから  明治29年5月

参考文献

・人名事典 http://www.jinmei.info/data/20041220001.html

・Yahoo!百科事典 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E4%B8%80%E8%91%89/

・樋口一葉 小説(発表年順) http://uraaozora.jpn.org/ichiyonovel.html

・日本銀行 http://www.boj.or.jp/type/exp/bn/data/are02m.pdf


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