小林一茶
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小林一茶
小林一茶(こばやし いっさ) 宝暦十三年(1763)~文政十年(1827)
江戸時代、化政期の俳人。 本名:弥太郎 別号:圯橋・菊明・亜堂・雲外・一茶坊・二六庵・俳諧寺など
生い立ち
信濃国水上郡柏原村の農民小林弥五兵衛・さつの長男として生まれる。 3歳で生母と死別、その後祖母の死・継母との不和もあって、15歳で江戸に出る。渡り奉公に耐えている間に、俳諧文学に心を寄せ、やがて葛飾派の領袖、素丸に拾われ、家の執筆役も勤めた。寛政4年(1792年)一茶29歳の時に、師素丸らの許しをうけて7年におよぶ西国行脚に出発し、その間関西・四国・九州方面の諸風にふれながら自風の基盤をつくったが、江戸で一家を成すには至らなかった。
その後、享和元年(1801年)一茶39歳の時、帰省中に父を失くし、その遺言による遺産分配問題で継母・異母弟と対立が激化。そのため江戸と故郷との往復を余儀なくされた。その後健康のおとろえも加わり、文化9年(1812年)一茶50歳の時に江戸を引き払い帰郷定住した。故郷に腰をすえた一茶は翌年、遺産分配問題を解決し、そのまた翌年には母方の縁者である菊という若妻と結婚。菊との間に3男1女をもうけたが不幸にもいずれも夭逝した。特に最愛の長女さと失ったショックは大きく、追悼録ともいうべき代表作『おらが春』に一茶は最後の精魂を傾けた。 その後の一茶には、菊の死や度重なる病気、後妻雪との離婚、火災など不幸が次々に襲い、文政10年(1827年)11月中風の再発により焼け残りの土蔵の中で後妻ヤヲに看とられて65歳の生涯を終えた。
一茶調の特徴
一茶が活躍した文化・寛政期は、松平定信の寛政改革のあとを受けて、11代将軍家斉治下の大御所時代と呼ばれる華美な時代であった。 当時は、教育の普及による作句人口の急激な増加とその質的低下が、俳諧の大衆化現象を招き、俳諧は大衆の手軽な娯楽の一つと化していた。この時代の俳諧には平均化した風雅趣味や季題趣味が蔓延していたのである。
一茶の作品には、そのようなえせ風雅感や風流趣味に反発し、俳諧の世界に強烈な自我を投入して、人間のなまなましい肉声を響かせようとする試みがあった。そして、それを可能にしたのは、生来の逞しい野性と、あくことなき人間生活への関心であったといえる。
代表作
・『おらが春』
・『一茶発句集』
・『文化句帳』など
参考文献
丸山一彦 1964 『小林一茶』 桜楓社
黄色瑞華 1983 『人生の悲哀 小林一茶』 新典社
矢羽勝幸 1993 『一茶大辞典』 大修館書店
丸山一彦 2000 『一茶とその周辺』 花神社
ハンドル名:OMUSUBI