志賀直哉
出典: Jinkawiki
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志賀直哉
志賀直哉(しがなおや) 1883年(明治16年)~1971年(昭和46年)
白樺派の代表的な小説家。大正から昭和にかけて活躍した。
生立ち
明治16年、父・直温、母・銀の次男として宮城県石巻町に生まれる。
父直温は、当時第一銀行石巻支店に勤務、のち実業家として成功。志賀家は、代々武士の家柄で、3代目以降相馬藩に仕えていた。 直哉が学習院初等科から中等科に進んだ明治28年、生母を失い、養母浩を迎える。明治33年、直哉17歳の時内村鑑三の人間性に強く引かれ、内村の門下になり、以後7年間その門に出入りした。
明治34年、足尾銅山の鉱毒問題で世論が沸騰、直哉も荒廃した被害地視察を計画したが、父に強硬に反対され、親子は衝突した。これが16年間にわたる父との不和の端緒となった。
学習院中等科6年卒業の際、直哉は2度目の落第、武者小路実篤、木下利玄、正親町公和らと同級となる。直哉の2度の落第は、これらの文学仲間と邂逅し、創作の萌芽をもたらしたという点で、運命的な意味をもった。
明治39年、東京帝国大学文科大学英文学科に進学。明治43年直哉27歳の時に、公刊本「白樺」が創刊され、この創刊号に「網走まで」を発表。同年大学を退学。「白樺」の創刊とともに、直哉の創作への情熱は高まっていった。明治45年、「大津順吉」を「中央公論」に発表。はじめて百円の原稿料を得たが、父はこのことに感動しないのみか、短編集を作る上での出費にも協力しなかった。直哉は自活を決意し、地方生活を始める。大正3年、武者小路実篤の叔父の娘康子と結婚。この結婚でも父との衝突が起こり、翌大正4年、直哉は自ら志賀家からの廃嫡を願い出て、除籍し、一家を構えた。同年、千葉県我孫子に移住、前後7年半に及ぶ我孫子時代が始まる。翌年長女が生まれるがわずか56日で死去、深い悲しみに創作意欲も褪せていったが、友人たちの温かい刺激も手伝って、大正6年「城の崎にて」「佐々木の場合」などを発表、再び軌道にのりだした。同年、次女が誕生、父もこの出産を陰ながら喜んだ。そして8月31日、久しく続いた父との不和が自然と解ける。10月、直哉は喜びと興奮でいっきに「和解」を執筆。全青年期のしこりとなった父との対立はここに終わった。
父との和解がなり、調和的な気持ちに落ち着いた直哉は、充実した創作活動に入っていく。特に大正10年から12年にかけて「暗夜行路」の大部分を執筆したことは、創作意欲の旺盛さをものがたっている。その後、京都・奈良に移り住み、幾度かのブランクをおいたのち、昭和20年久しく休載していた「暗夜行路」の最終部分53枚を一挙に「改造」に発表。大正10年に「改造」に連載され始めた時から数えて、足かけ17年の執筆活動であった。戦後、昭和22年には1年間の約束で日本ペンクラブ会長に就任。昭和24年には文化勲章を受章する。 当時の暗い世相に疲れた直哉は、静かで景色のよい熱海で養生する。その後、東京に戻った直哉は「夫婦」「祖父」「ヴィーナスの割目」などを発表するが、段々と創作から離れてゆき、昭和35年頃からは、ほとんど筆を断つようになる。 晩年の直哉は、展覧会、映画、芝居、テレビなどをよく観たり、マージャンに興じたりする平穏な生活を送り、昭和46年10月21日直哉は肺炎と全身衰弱のためその88年の生涯を終えた。
見出し
志賀直哉が文学活動を開始したのは明治末期、自然主義文学の全盛期であり、志賀直哉自身もその影響を多分に受けた作家のひとりであった。そのため、志賀文学には彼の徹底したリアリズムが込められている。リアリズム(現実主義)はロマンチシズム(ロマン主義)の対比概念で、本来主観や空想を排除して対象を客観的にとらえる方法をいい、坪内逍遥の「小説神髄」や他の自然主義文学者の主張はほぼそのようなものであった。しかし志賀直哉のリアリズムには、自我や主観が前面に出され、しかもその自我や主観さえもとらえられるべき対象として客観的にその作品の中に描かれている。
主な作品
・「大津順吉」
・「城の崎にて」
・「和解」
・「小僧の神様」
・「暗夜行路」
・「灰色の月」 など