フリードリッヒ・フォン・シラー
出典: Jinkawiki
フリードリッヒ・フォン・シラー(1759-1805)は1759年11月10日にライン川支流のネッカー河畔のマルバッハで生まれ、1805年5月9日にワイマルで亡くなった。彼は、最も偉大なドイツ人詩人の一人であっただけでなく、偉大な教育者でもあった。
その生涯と創作活動の全体を通じて常にシラーを動かした重要関心事は同時代の人々の教育だった。その点で何より彼の心の中にあったのは、その目標の実現において美と芸術はどのような役割を果たすことができるのかという問いであった。
美と芸術は人間に教育的作用を与えることができるのだろうか。それは、シラーの様々な美学論文のなかで論じられている教育学的根本問題であった。
美と芸術による教育者としてのシラー
1782年にシラーは雑誌『ヴュルテンベルクの文学総覧』第1号に論説「現在のドイツの劇場について」を発表した。そこで、シラーは芸術の価値が、宗教や道徳の価値と同じであるとしている。彼にとって、芸術は民族の教師であった。芸術の助けを得て、詩人は人々に働きかけることができ、その結果人々は教養を高めるのである。その見解をシラーは芝居についての見解の中ではっきりと主張した。
「芝居は気晴らしのためのものではないし、『あくびをするような退屈に活気を与え、楽しくない冬の夜を欺き、甘ったれた怠け者(たち)の大群』を楽しませるためのものではない。また、人生の実際を反映させることも芝居の課題ではない。宇宙に関する考察において、人間は大きな宮殿の前に立ち、そして途方もなく巨大な建造物の一部分しか眺めることができない蟻に等しいのである。なおかつ人々は全体の均整を認識できず、そしてかなり奇妙に見えるのである。したがって詩人は、小さなものの場合にしばしば見られる調和を活用しつつ、大きなものにおける調和を提示するために、人々に世界を縮小して示すべきである。そのようにすれば、人々は生活の関連を認識し、そして全体における個別の意義を知ることができる。」
シラーはこのように考えた。
しかし、シラーは何よりも人々を道徳的に善くしたかったのである。しかしその論文では、私たちはまだ、その目標を達成することが本当に可能なのか、というシラーの疑念を感じることができる。というのは、経験はあまりにもしばしば芝居の正反対の作用を、つまり人々を道徳的に悪くする作用を示しているからである。たとえば俳優が観客の心を惑わすようにしか働きかけないときに。
[舞台を道徳的施設であると考える]
論説「舞台を道徳的施設であると考える」によって、シラーは1784年にも芸術の意義に関する彼の考察を継続した。彼は舞台が宗教よりも一層強く人間の感覚に作用し、その人の教養を拡大するという見解を持っていた。そしてその点に舞台が擁護される理由があるとされているのである。芸術は法律に比べても一層力強いのである。
「いかなる道徳も教えられず、いかなる宗教も信仰されず、いかなる法律も存在しないとき、それでもなお女神メディアはわたしたちをみる」
芸術の作用を、シラーは芸術には何ができるのかを考察することにより明らかにしている。それによれば、芸術は人に教え、そして人のために悪徳と徳を、幸福と悲惨を、愚かさと賢明さを、生き生きとした描写のなかに分かりやすく具現する。さらに芸術は、世俗的権力が届かないところで清廉潔白な裁判官であると述べられている。
「私法がお金のために分別を失い、そして悪徳に雇われて贅沢をするとき、正義の無力をあざ笑う権力者達の忌まわしい行為及び人間の畏怖がお役所の腕を縛っているとき、舞台は剣と天秤を受け取り、そして恐怖の判事席の前で悪徳を八つ裂きにする」
舞台は人々の中に、例えば有益な恐怖感のような強い感情を引き起こすことができ、そして法律や道徳よりも相当に深く影響する。芸術は高潔な人々を手本とし、卑劣な犯罪の提示によって高潔な人々の心を揺さぶる。さらに芸術は人々の愚かさを、冗談や風刺によって嘲笑する。最後にシラーは、さらに次のことを芸術の影響範囲に加えている。すなわち、芸術は人々に実践的な知恵を伝達し、そしてまた心理学的課題を果たすということを。芸術派人間の心の最も深いところで起こることを解明する確かな鍵である。
なるほどシラーは芸術が、それが行使するあらゆる作用にもかかわらず、人間を良くできるかどうか、まだ疑っている。しかし芸術は確かに人々に様々な悪徳を気づかせる。芸術の助けを得て、人間はしばしば見えにくい悪を認識することができる。人間が早い時期に様々な誤謬や欺瞞を洞察すれば、その人間は「人生の生業」もまたその運命、その計画とともに、より早く把握することができる。とにかく芸術は、人間をより公正とすることができる。その結果、人間は自分の不運ですら心穏やかに判断することができるのである。
道徳教育と共に芸術はさらに別の領域でもその力を示す。芸術は知性もまた啓発するのである。
しかし、シラーによるその論説の中核であるのは、芸術が「国民の精神」に及ぼしうる影響についての彼の考察である。シラーは舞台を見れば、ある民族の様々な意見や性向の一致や類似が明らかにされるとしている。
「その一致を高い度合いで引き起こすことは舞台にとってのみ可能である。というのは舞台は人間的知識の全領域を遍歴し、生活のあらゆる状況を汲み尽くし、そして深く心の隅々まで照らすからであり、というのは舞台はそこに全ての身分と階級を統合するからであり、そして知性にも心にも非常に通じやすい場であるから」
そのような劇場にシラーはあらゆる希望を結びつける。彼はそれどころか、当時のドイツ民族が一つの国民となることができるのは、国立劇場を有するときだけであると信じている。そのような考え方を証明するものとして、彼はギリシャ人を引き合いに出している。ギリシャ人は様々な戯曲の愛国的内容に感動し、そしてそこにおいて「ギリシャ的精神」を感じ、そしてそれだけより容易に互いに懇意になったのである。
しかしその論文「舞台を道徳的施設であると考察する」の末尾で一つの問題が浮かび上がってきている。そしてその問題は芸術と美が人々にとって有している意義に関してシラーがその後に展開する思考に影響した。即ちシラーは、人間の中で肉欲的なものと精神的なものが矛盾していることを見抜いたのである。どちらの側面にも人間は最終的には従うことができない。精神の高度な要求は最終的には消耗へと導き、肉欲もまた疲労の中で果てるからである。
しかし人間というものは、その両極端を統合し、そして主な傾向となっている「厳しい緊張を優しい調和へと和らげ、そしてある状態と別の状態との相互以降を容易にする…中間状態」に憧れるのである。その目標は芸術の助けを得ることでしか達成されない。というのは「総じて美的感覚のみが、即ち美しいものへの感情のみがそれを活用する」からである。
したがって舞台は、そこでは娯楽と教育が、いわばリラックスとストレスが結合されている公的な場であると思われている。そこではいかなる人間のある特定の能力だけが緊張させられることは無く、いかなる娯楽もその一部分のみが味わわれることは無い。芸術の世界においては人間はいわば現実を「夢見」続け、そしてそのようにして自分の真の思いや願いを知るのである。即ち、ここでは人間的全体性の思想がシラーの心に浮かんでいる。さらに緊張と「融解(Schmelzen)」の思想もまたそうある。しかしそれらの適切な解決をシラーはここではまだ発見していない。ここではシラーはまだ、芸術によって人間の中に引き起こすことができる全ての感覚を味わうことが目標であるとみなしている。つまり本当に感覚する人間は十二分に発達もしており、そこには真の人間が存在するのである。その場合には人々を互いに分離している「身分」や「階層」が克服されている。「全てを織り込んでいる共感」は人々を結合する。そのような人々は今や自分が「人間」であることを真に感じることができるのである。
人間の精神的自由を実現する芸術について
芸術の教育的意義
シラーは詩人でありながら、美あるいは芸術を、人間に対する教育という観点で考察した教育学者でも合った。彼は芸術の教育学的意義を人間理解あるいは自己理解をもたらす作用があるという点で、そしてそれによる人間精神に対する成長促進的作用という点で述べた。
芸術がわたしたちに人間理解あるいは自己理解をもたらしうるのは、それが人間の行動、精神、情動などを具体的手段で持って描出しているためである。それは人間の美しい面のみでなく、醜悪で悲哀に満ちた世界を描き出しもする。わたしたちはそれらを見るとき、それこそが人間の姿であると認識する。そして、そこに描き出された世界と同様の体験が私たちの精神内界に喚起されることによって、私たちは自身にも、そこに描き出された世界と同様の世界が存在していることに気がつく。これにより私たちは自身の内的世界に関する洞察が導かれる。
さて、善性及び悪性、あるいは理性及び肉欲性という相対立するものの並存が私たちに認識されたとしても、私たちがその事実を認めることができない場合には、悪性及び肉欲性の禁圧が行なわれることになる。あるいは故意に欲望に任せた行為を行なうなど、葛藤的で混乱した行動が見られる場合もある。この状態では精神の自立的自由はあり得ず、常に不全感や不満が生じることになる。
シラーは、精神の自立的自由が保たれた状態でありうることを人間における最良の状態とし、それは理性及び肉欲性など相対立するものが統合されることによって到達可能になると考え、それを導くものが芸術であるとした。
精神性と肉欲性の統合
人間精神には様々な対立的二項ができる。それらを挙げると、理性と肉欲性、自己性と他者性、持続性と可変性、個別性と多様性、部分性と全体性、現実性と架空性、没入と離脱、分割と統合、緊張と融解、瞬間と永続性、偶発性と必然性、自由と制約などである。これらは対立するものでありながら、両者はそれぞれ他方によって規定されるものであり、一方の出現には他方の出現が不可分な関係となっている。
これら対立的二項は、それそのものとしては対立的二項でしかないが、それに対する私たちの関与様式によっては、そのうちの一方のみを排他的に浮かび上がらせることも、あるいは同時的双方向的な関与によって両者を多様性を保持した統一体となすことも可能である。前者は、本来あるべき全体性を無効にする行為であるため、それを遂行するためには相当の負荷がかかる。しかし後者の場合には、本来的に存在している多様的全体性をそれとして受け入れつつ、それに対して能動的かつ双方向的に関わることが可能なため、自由な立場で対象と関わる恩恵を享受できる。これがシラーのいう精神的に成熟した人間の状態像である。
このような同時的双方向的な関係性は、自己の内部において生じるのみでなく、自己と他者との関係においてもありうる。後にフッサールが述べているように、私たちは、他者の身体状態を知覚することによって、その他者の心的生活を自身の内部において経験することが可能である。フッサールのこの認識自体、人間の知覚の受動性と能動性の同時性を基礎とするものであり、シラーの認識と連続線上にあるといえる。このように、自己の内部における他者経験と自身の内部における自己経験を同時的双方向的になすことによって、私たちは自己と他者との統合的な関係性をもつことが可能となるといえる。
精神性と肉欲性をつなぐ芸術
芸術派現実的手段を媒介として、人間の精神的世界あるいは情動的世界をわたしたちの主観的世界において描き出す。このように芸術は現実的手段でありながら主観的世界の双方にかかわる領域のものであるといえる。
参考文献
ユルゲン・シェーファー著 船尾日出志・船尾恭代監修 久野弘幸・澤たか子編訳 『教育者シラー――美と芸術による人間性の獲得』 学文社 2007年