熊谷直実

出典: Jinkawiki

2010年2月3日 (水) 22:23 の版; 最新版を表示
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目次

概略

熊谷直実は、平安時末期から鎌倉時代に源氏で活躍した武蔵の武将。一ノ谷(兵庫県神戸市須磨区)の合戦で、敵方の平敦盛の首を取ったという話は有名。歌舞伎としても伝えられている。源頼朝が鎌倉に幕府を開き、時代も鎌倉時代へとなり,源頼朝の絶対的信頼を受けていた。しかし、武士として生きる事に失望し,またある事件で源頼朝との仲も壊れて、出家して法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)という法名で、数多くのお寺等を京都などに建てた。

生涯

永治元年2月15日(1141年3月24日)、武蔵国大里郡熊谷郷(現:埼玉県熊谷市)で生まれる。弓矢丸と言う幼名であった。二歳の時に父が亡くなり母方の弟、叔父さんの久下直光(くげ なおみつ)に育てられる。その環境にもめげずに勉学に熱中し、その事が成人してからの直実の人間性に大きな影響を与える。 また,弓や馬の武術にも暗くなるまで励み,荒川での水泳や河原での大きな石を持ち運ぶなど、身体をも鍛え,亡き父に負けないような立派な強い武士になろうと武芸の道にも励んだ。 弓矢丸が十五歳の頃、久寿二年(1155)に叔父の直光に元服の儀式を受け,名前を熊谷次郎直実と名乗った。字は次郎(じろう)、諱は直実。子に熊谷直家がいる。直実が元服をした翌年の保元元年(1156)に保元の乱が起こり,源義朝(みなもとのよしとも)の家来として,初めて戦場で初陣を飾った。

源平の戦い

平治元年(1119)、平治の乱が起きる。この戦は,義朝が平氏の平清盛(たいらのきよもり)を討とうとした乱で,直実は騎乗から勇ましく戦ったが源氏が敗れる。後二十年間は平氏の全盛期時代になり,平清盛は武家として初めての太政大臣となる。嘉応元年(1169)叔父の直光が、諸国の武将が三年交代で上京し皇居(御所)の護衛や京都の都の警備につく,地方武将の勤めで,格式の高い役目である大番役を自分の代わりに直実その職を譲る。 しかし、賀茂の河原で行われた相撲大会で直実が優勝すると、敵方である平家の平知盛(たいらのとももり)に気に入られ,平家の家来となる。それを知った叔父、直光は勘当し源氏からも追放され,直実は知盛に仕えることとなる。 治承四年(1180)源頼朝は平家打倒と兵を挙げるが,石橋山(神奈川県小田原市)で平氏の大軍にかかり,惨敗。その時直実は平家方について戦っていた。この戦いに負けた頼朝は山の洞穴に隠れていたのを直実が見つけ,逃がすか,捕らえるのか悩んだ末,自分にも源氏の血が流れていると考え,頼朝を無事平家から救い出す。命を助けられた頼朝は直実の源氏追放や勘当を解き,関東一体の源氏の勢力を鎌倉に集結した時には直実も頼朝に忠誠を誓い,再び源氏の家来になった。

一の谷の合戦

寿永三年(1184)、頼朝が平家、木曾義仲(きそよしなか)を討つ宇治川の戦いが起こると、その勢いで一ノ谷の合戦(兵庫県神戸市須磨区)へと突入する。勢力の衰えた平家が逃げ回る中に立派な若武者を見つけ,『返したまえ!返したまえ!敵に後ろを見せるのは卑怯ぞ。戻って尋常に勝負せい』と手に軍扇(ぐせん)を打ち振り、若武者との一対一の戦いとなる。直実はたちまち若武者を組み伏せるが,近くで見ると相手は未だ幼く,逃がそうと思うが、味方の軍勢が大勢駆けて近づいてき、時の慣わしで敵方の武将は、なぶり殺しにされる事を避ける為に『汝はや、助かるすべもなし』と、震える刀で若武者を討ち取った。その若武者は、十七歳の平敦盛であった。直実は敦盛の青葉の笛を大切に持っていた。 直実は笛の名手で心優しい敦盛を討った事に戦の無常を強く考え,敦盛の首をさらすのでなく、源氏の反対を通し首と遺品を敦盛の父、平経盛(たいらつねもり)に詫びの書状を送った。これを熊谷の送り状という。末っ子の敦盛を大変案じていた父は,直実の熱い心に感激し『ありがたきかな、ありがたきかな。このような武人の手に討たれしは』と落ちる涙もぬぐわずに御礼の返事を寿永三年(1184)2月14日にしたためた。これを経盛の返し状という。文治元年(1185)屋島の合戦、壇の浦の合戦で負けた平家一族は滅亡して,源氏の世になる。

出家

源氏は鎌倉に集結し,直実も頼朝に一番近い武将として仕えたが,流鏑馬(やぶさめ)の的を持たされた直実はこれを不服とし、自尊心を傷つけられ二人の関係が冷え切ることになる。 建久元年(1190)敦盛の七回忌にあたり、その菩提を供養する為に高野山に入り、熊谷寺という寺を建立し、敦盛の霊を厚く弔った。 建久三年(1192)、源頼朝は征夷大将軍となり、鎌倉に幕府を開いた。その頃直実と叔父、久下直光との間との領地争いを頼朝が真剣に考えず,直実の領地が少なくなった事に不満が一気に爆発し、また自分が手柄を立てる事や金銭にばかりとらわれていた生き方に空しさを感じ,家族や頼朝の制止を振り切り、武士を捨て仏門に入る決心をする。 建久四年(1193)の春、直実は京都の法然上人草庵を訪ね,『今までに大勢の人を討ってきた。今は大変後悔をしている。こんな私でも仏は救ってくれるか』と厳しい表情で法然上人に真剣に問いただしたところ『罪の多少にかかわらず,念仏を申せば誰でも往生できる事に疑いありません』と申され,初めて仏の慈悲を知った。その仏の教えに感動し、法然上人の弟子となって出家した。法然上人より,泥沼の中でも、濁り無く蓮のように清らかに花を咲かせる心を持って生きると言う、法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)と言う名を与えられ、蓮生(れんせい)と呼ばれた。入門して間も無く蓮生は、法然上人が生まれた岡山県に誕生寺というお寺を創建する。 建久六年(1195)の8月に法然上人とお別れをし,泣く泣く故郷の埼玉県,熊谷市に帰る決心をする。 その後、再び京に戻った蓮生は、建久八年(1197)の5月に法然上人から戴いた自作尊像を本尊としての、法然寺を創設。翌年の建久九年(1198)には栗生(あお)の光明寺を建てる。その後も数多くのお寺や道,橋を都に残す。 元久二年(1205)の春。六十六歳の老齢を感じ、死期を悟った蓮生は法然上人や親鸞上人や弟子達との別れを告げ,熊谷へと戻る。承元元年(1207)9月4日、自分の創設した熊谷寺(ゆうこくじ)で死期を予告して大往生を遂げた。

参考文献・資料

『日本の歴史 7 鎌倉幕府』(石井進/中公文庫)

熊谷次郎直実:熊谷市http://www.city.kumagaya.lg.jp/about/rekisi/tyomeinajinbutu/kumagaijirou/index.html

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