大仙陵古墳
出典: Jinkawiki
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大仙陵古墳
大阪府堺市堺区大仙町にある日本最大の前方後円墳。前方部を南に向けた墳丘は、全長約486メートル、後円部径約249メートル、高さ約35.8メートル、前方部幅約307メートル、高さ約33.9メートルの規模で、3段に築成されている。約2.8kmの周遊路が整備されており、一周するには1時間かかる。左右のくびれ部に造出しがあり、三重の濠がめぐっているが、現在の外濠は明治時代に掘り直されたものである。葺石と埴輪があり、埴輪には人物(女子頭部)や水鳥、馬、犬、家などが出土している。北側の反正陵古墳(田出井山古墳)・南側の履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理している。 最近の発掘調査で、造出しから須恵器の甕(かめ)の破片が出土したりしていることから、考古学的には、本古墳が5世紀半ば~後半につくられた可能性が高く、仁徳天皇の陵であるとすることに否定的な見解が唱えられているようだ。
前方後円墳とは
1700年前から1400年前に造られた古墳と呼んでいるお墓のなかで、円形と四角形を組み合わせてカギ穴の形に作った日本独特の形をした古墳のこと。日本にある多数の古墳の中で、この形の古墳を造ることができた人は、支配者の中でもヤマト政権に認められた、限られた人だけだったようだ。その中で一番大きいのが大仙陵古墳で、このような巨大な前方後円墳を造ることができた人物が日本の頂点にいた大王であると考えられている。また、巨大な前方後円墳を頂点として、その下に位置づけられる大きさや、幾種類かの形に分けられた古墳が分布していることから、この大王が日本をある程度まとめていた、つまりその当時ある程度のまとまりのある統一国家が出来ていた証しと考えられている。
仁徳天皇
『古事記』、『日本書紀』で第16代天皇と伝えられ(江戸時代後期から明治時代には祖母にあたる神宮皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合がある)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鶴鷯(おおさざき)で、仁徳天皇は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死語に送る称号〉)である。『日本書紀』では亡くなった年齢は書いていないが、在位87年で没したと記されている。また『古事記』では83歳で亡くなったと記されている。一説によると、神功57年(257年)に誕生したといわれ、仁徳元年(313)1月3日に即位し、仁徳87年(399)に崩御したので、単純計算で 143歳の長寿で亡くなったことになる。『古事記』や『日本書紀』は、仁徳天皇を考えるうえでは重要な資料になる。 中国の資料『宋書』には「倭の五王」が記され、その最初に記された王「讃(さん)」の発音が、「おおさざき」に通じることから、仁徳天皇が「讃」ではないかという考えがある。仁徳天皇がこの「讃」王なら、永初2年(421)に宋の南朝に朝貢して安東将軍・倭国王にはじめて任命され、邪馬台国の時代(3世紀の後半)から約150年間途絶えていた日中間の国交を回復し、それを柱として東アジア外交を展開した国際感覚豊かな大王ということになる。また、その他に「倭の五王」の「珍(ちん)」とする考えもある。「倭の五王」の時代には、日本列島から大陸に文物、特に朝鮮半島に産する鉄を求めて、さかんに海外進出した時期で、仁徳天皇はその時期に活躍した大王の一人かもしれない。
参考文献
http://www.city.sakai.lg.jp/kofun/database/nintoku.html
日本史資料集