石山合戦

出典: Jinkawiki

2010年2月5日 (金) 11:32 の版; 最新版を表示
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 石山本願寺は親鸞を開祖とする浄土真宗・本願寺は(一向宗)の総本山であり、全国の末寺や講組織によって多額の献納金を集め、大名に匹敵する経済力・組織力を持っていた一向一揆の中心的存在であった。石山本願寺の地は、四方を河川に囲まれた要塞で、本願寺自体も築城の専門集団を呼び作ったものであり、この頃一種の軍事要塞と化していたとされる。この石山本願寺を相手として織田信長が戦った戦いが「石山合戦」である。


  もともと一向一揆は守護や大名の支配に農民や僧たちが守護や戦国大名に抵抗し、大きくの地で起こっていたことであり、信長と本願寺が対立したのもそれが背景に当たるが、対立のもう1つの背景として、信長が本願寺の要塞堅固なその立地に興味を示したことがある。信長はその地を自身の政治拠点をするため、石山本願寺をそこから撤去させようとしたのである。そこで、信長は、石山本願寺に対して5000貫の軍資金の提供を求めたほか、「石山から退去してその地を織田方に引き渡せ」と要求した。その頃、石山本願寺には、将軍・足利義昭からの反信長包囲網に参加するようにとの誘いが届いており、本願寺の存亡に危機を感じていた11代法主・顕如は信長への徹底抗戦を決意したとされている。


1570年(元亀元年)末の江濃越一和のとき、勅願寺として天皇と良好な関係を保っていた本願寺は蚊帳の外に置かれ、信長とは公式に和睦していなかった。しかし、前述のように、早晩、両者の対決は避けられない情勢にあった。 こうして、法主・顕如が信長打倒の指令を全国の門徒に発し、11年にわたる石山合戦の火蓋が切られたわけであるが、当時、石山本願寺は要塞と化した寺自体の堅固と組織力を持ち合わせていたので、信長は直接対決を避け、各地の一向一揆の制圧に取り掛かる。1574年(天正2)伊勢長島の一揆、1575年(天正3)越前・加賀一向一揆を撃破し、徐々に本願寺を圧迫していった。この織田軍の圧制を見た本願寺は一時期、和睦を申し入れ、一度は信長も許したわけであるが、この和睦は細かい条件は伝えられておらず、半年も持たなかったらしい。この後、丹波戦争が始まり、織田分語句の混乱を見た本願寺は再び和議を破り、信長への敵対を示す。これにより、丸四年に及ぶ最後の石山戦争の幕が落とされる。焦点は本願寺がいかにして兵糧を入手するか、信長はそれを阻むかの一点に絞られた。また、勅願寺である本願寺との戦争には、天皇を上手く利用する事が何よりも効果があり、相手の戦意が喪失するであろうことを計算しており、「巡大法」と称し、不動護摩法と呼ぶ密教の祈祷を明示行わせた。これは信長に対する戦勝祈願であるため、顕如らにとって痛手であった。


そうしているうちに、本願寺が毛利水軍に搬入を要請、一度は織田軍が「ほうろく」と呼ばれる一種の爆弾を使用され大敗するが、織田軍の水軍の将・九鬼嘉隆に船体を鉄板で装甲し数門の大砲を装備した大船の建造を命じ、1578年(天正6)夏・大阪を海上封鎖し、同11月に勝利した。以後、石山本願寺の補給路が断たれ、直接的な攻撃は受けないまま、決定的に劣勢に追い込まれてしまい、顕如は朝廷からの和議を受け入れ、退去したのである。こうして、1580年(天正8)、実に11年にもわたる長い攻城戦は終結したのである。


参考文献:「戦国史」    監修:武光 誠(明治学院大学教授)

     「信長と天皇」  著:今谷 明


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