農地改革

出典: Jinkawiki

2010年2月6日 (土) 09:49 の版; 最新版を表示
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 従来の地主支配的な小作関係を打破し、耕作者自らが農地を所有するところの自作農を広汎に創出することによって、この創出された自作農が戦後の食料難に対処して食料増産を担い、農村社会の従属的な関係を打開して、農村の民主化を促進する担い手層として力強く発展することをねらいとして実施された。  国土の全土地を対象としたものではなくて、主として農地を対象としたという不十分さはあったものの、わが国の農地所有構造を大きく転換させたのであり、わが国の父の歴史の中でもきわめて重要な歴史的改革であったと言える。

実施法

 農地改革は、占領軍の支配下での「上からの改革」であったといわれているが、まず、昭和20年11月に日本政府自身の手で農地改革実施の方向を示したことが出発点となっている。これがいわゆる第一次農地改革(農地調整法の改正で実施)であったが、この農地改革では地主的土地所有をなお根強く残存させるものであり、農地改革がきわめて不徹底であるとの占領軍司令部(GHQ)の指示によってその実施は凍結された。その上で政府はGHQとの協議を重ねつつ、昭和21年10月に農地改革実施法を制定した。自作農創設特別措置法がその農地改革法であり、この法律では、農地改革の目的を「耕作者の地位を安定し、その労働の成果を公正に享受せしめるため自作農を急速かつ広汎に創設し、以て農業生産力の発展と農村における民主的傾向の促進を図る」とした。

実施

 農地改革の対象は、①不在村地主の全所有小作地、②在村地主は、都道府県平均で1町歩(北海道4町歩)を超える所有小作地、③自作地も3町歩(北海道12町歩)以上で耕作が不適正な農地、④ため池、建物等農地に附帯する施設であった。国がこれを自作収益地価(当時の価格で全国の田平均反当り757円、畑平均反当り447円、ここの農地の買収価格畑は賃貸価格の40倍、畑家は48倍)で買収し、小作農などに売り渡した(売り渡した対価は年賦償還方式で返済)。  農地改革の実行は、市町村農地委員会(小作5人、地主3人、自作2人―以上は階層別選挙で公選、中立委員3人以内)が中心的役割を果たした。市町村農地委員会が、それぞれの村の農地等の買収計画、売り渡し計画を策定し、都道府県農地委員会の承認を受けて実施するという農民自らの手で農地改革を遂行しところに歴史的、政治的意味があった。

成果

農地改革は、昭和22年3月の第1回買収から以後第16回買収(昭和25年7月)まで行われ、この段階で一応の終了となる。  これにより農地の所有・利用の関係は大きく変化した。昭和25年7月までに国が買収した農地面積は、174万2000町歩であった。その他に国が所有していた農地や物納財産などで農地改革のために供された農地(所管換・所属替農地)が19万1000町歩、合計193万3000町歩が農地解放のための農地となり、これを小作農等に売り渡した。農地を買収された在村地主は125万戸、法人・団体は14万2000団体、不在村地主は36万3000戸に達した。これらの農地の売り渡しを受けた農家は474万8000戸(うち村内居住者は429万9000戸)に上るといった、一大土地改革であった。 この結果、農地の大部分が自作農地(耕作者自らが所有する農地)となった。農地改革実施前の昭和20年には、わが国の農地面積515万6000町歩のうち自作地は278万7000町歩(54%)でしかなかったが、農地改革後には自作地が90%を占めるようになった。農家の大部分が自作農となったのであり、経営耕地の大部分を小作地(借入地)に依存する小作農は全農家(617万7000戸)のわずか5%にまで減少した。  この広汎な自作農の創設とその維持発展が戦後農政の重要な柱であったし、これらの自作農の努力によって農業生産力は著しく発展し、食料難を切り抜け、昭和30年には戦後農政の一つの到達点として米の大豊作を経験する。

参考文献 ・日本の土地 財団法人土地総合研究所 ぎょうせい ・農地等解放実績調査 農林省農地局 農業サンセス


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