長宗我部盛親
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安土桃山時代から江戸時代前期の大名・武将で長宗我部氏第21代当主。長宗我部元親の四男。天正3(1575)~元和元(1615)
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生涯
11歳の天正13年(1585)の春、父・元親は四国統一を果たしたが、豊臣秀吉の四国征討により、同年7月に降伏し、土佐・浦戸22万2000石に仕置される。以後、元親は秀吉への忠勤に励み、小田原の役、文禄・慶長の役に従軍したが、慶長4年(1599)に没したので、盛親が家督を継いだ。 関ヶ原の役では、当初は天下の趨勢が徳川家康に帰すものと予見し、東軍に参じることにするも、家康への使者が、近江・水口に西軍の長束正家が設けた関所に対して危険を覚え、あえなく引き返して事態を報告すると、西軍に投じる道を選択した。 前哨戦の山城・伏見城攻め、伊勢・安濃津城攻めに加わる。本戦には南宮山の東麓に陣を布いたが、吉川広家・小早川秀秋の寝返りにより、西軍が総崩れとなるや、ついに一戦することなく戦線離脱。伊勢・伊賀を経て、大坂より土佐へ落ちた。戦後は井伊直政を介して家康への謝罪工作を進めたが、結局失敗して、土佐・浦戸領を没収される。死一等を免ぜられて後、京都で手習いの師匠すること14年を経て、大坂の陣で西軍に参じた。だが、敗戦後に捕らえられて、京都・六条河原で斬首される。享年41。
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参考文献
小池徹郎編 「グラフィック図解 関ヶ原の戦い」 2009年9月 学習研究社 M.S