高度経済成長期
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
1950年に起こった朝鮮戦争で、戦争関連の特需が一気に舞い込んだことがきっかけとなり、1950年代後半から驚異的な経済成長を実現し、第一次石油危機のおこる1973年までの経済成長率は、多くの年で10%を上回った。この期間を高度経済成長期と呼ぶ。特に、1955~1973年までの17年間で、日本の経済力は6倍となり、1968年には国内総生産(GNP)が、アメリカに次ぐ世界第2の経済大国になった。
背景
経済成長には、以下の5つの条件がある。
(1)旺盛な投資意欲
(2)十分な資金力
(3)質の良い労働力
(4)技術の進歩
(5)購買意欲
これらの5つの条件がそろっていたため、高度経済成長期に日本は著しい発展を遂げた。
高度経済成長による生活の変化
高度経済成長期は、人々の生活に大きな変化をもたらした。
- プラス面
・豊かな日常生活
着物・もんぺ・軍服からスーツ・ネクタイ・スカートへ、ちゃぶ台でご飯と味噌汁からテーブルでのパン・牛乳・インスタント食品へ、木造住宅・長屋から団地・マンションへと、衣食住が変わった。1960年頃の「3種の神器=テレビ、洗濯機、冷蔵庫」から70年代「3C=カラーテレビ、クーラー、自家用車」へと、耐久消費財は充実した。茶の間がリビングに変身し、神棚にかわってテレビが「マイホーム」の中心になった。都市近郊の団地に住みスーパーマーケットで買い物というライフスタイルが定着した。いわゆる新中間層が増大しサラリーマンの時代となる。「中流意識」「私生活主義」の誕生である。
・失業率の低下
鉄鋼・造船・自動車・電気機械・化学などの部門が、アメリカなどの技術革新の成果を取り入れて設備を更新し、石油化学・合繊繊維などの新部門も急速に発達した。日本経済に占める第一次産業の比重が下がり、第二次・第三次産業の地位が高まった。さらに第二次産業のなかでも重化学工業の地位が高まって、工業生産額の3分の2を占めるに至った。この発展は、多くの労働者を必要とし、人々の働く機会を増やした。それに伴い、失業率の低下をもたらした。
・日本の国際的な高評価
貿易に関しても、輸出が円の割安な固定相場と海外からの安価な資源の輸入にささえられ急速に拡大し、1960年代後半以降は大幅な貿易黒字が続いた。輸出では鉄鋼・船舶・自動車などの重化学工業製品が中心となり、輸入では石油や重化学工業原材料の比重が高まった。日本は欧米諸国の要求に応じて、貿易の自由化、為替と資本の自由化を実施したことにより、諸外国から大きな評価を受けた。
・社会的施設の充実
高度経済成長期を通じて、日本の生活様式は「都市的生活様式」へと変化した。その中で、上下水道・公園などの生活環境、都市交通・通信手段、保健・医療・福祉施設、教育・文化・娯楽施設や諸サービス等も著しい発展を遂げた。
高度経済成長期によって生じたのは、プラス面ばかりではない。以下のようなマイナス面ももたらした。
- マイナス面
・公害の増加
急激な工業発展に伴い、大気汚染・水質汚濁・騒音などの公害問題が深刻化した。また、企業が汚染物質を長期間垂れ流して環境を破壊した。1960年代後半に、公害病に苦しむ被害者の抗議の声が組織化されて公害反対の世論と運動が巻き起こり、四大公害訴訟である阿賀野川水銀中毒・四日市ぜんそく・富山イタイイタイ病・熊本水俣病の被害をめぐる訴訟が次々に提訴された。のちに、政府の公害対策も進展し始め、1967年に公害対策基本法が制定され、1971年には環境庁が発足した。
・交通事故・渋滞の深刻化
都市交通の発展・自家用車保有率の上昇呼応して、交通事故での死亡者が年間1万人を超える事態となった。都市への人口集中が、交通事故及び渋滞の深刻化をもたらす結果となってしまったことも否めない。また、これが高速道路や歩行者天国等の建設のきかっけとなったともいえる。
・精神的なゆとりや情緒の減少
高度経済成長期には、欧米に追いつき追い越すべくハングリー精神で戦っていたため、経済性・合理性・機能性が重視されていた。それに伴い、家庭生活や地域社会における生活様式の画一化、人々の連帯意識の希薄化が進み、共感性や思いやりの心、なごやかさなどが失われる一面もあった。
参考文献
『大衆消費社会の終焉』犬田充 中公新書
『少子高齢化と社会政策』玉井金五・久本憲夫編 法律文化社
(投稿者:chi*)