観応の擾乱
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2010年2月9日 (火) 13:22 の版; 最新版を表示
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観応の擾乱(かんのうのじょうらん)は、観応年間(1350~52)の足利尊氏・直義両派の紛争と、それに連動した全国的争乱。
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経緯
南北朝の動乱によって対立した南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)が武力対決に突入した中起きた、北朝内での内乱。 南朝側では動乱の初期に楠木正成、新田義貞が戦死するなど形成は不利であったが、北畠親房らが中心となり、東北・関東・九州などに拠点をきずいて抗戦を続けた。 北朝側では1338(暦応元年)年に尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、弟の忠義と政務を分担して政治をとった。 しかし漸進派の直義を支持する勢力と、尊氏の執事である高師直を中心とする、より急進的な勢力との対立がやがて激しくなり、ここに相続問題もからんで、ついに1350(観応元年)に両派は武力対決に突入した。
その間、1351年に高師直が敗死した。ついで直義は鎌倉に逃れたが、52年尊氏によって毒殺され擾乱は収束した。この間、直義・尊氏が一時的に相次いで南朝と和睦して、擾乱の収束を遅らせた。しかし、抗争は直義が敗死した後も続き、尊氏派(幕府)、旧直義派、南朝勢力の三者が、10年あまりもそれぞれ離合集散を繰り返した。
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参考文献
「詳説 日本史」 山川出版社
「日本史B 用語集」 山川出版社
「読むだけですっきりわかる日本史」 宝島社文庫