戦争孤児
出典: Jinkawiki
←前の版 | 次の版→
概略
昭和20年に入り、アメリカ軍による日本本土への都市無差別爆撃が行われるようになり、両親・親戚等の保護者を失う子供が急増した。戦後は、海外からの引揚孤児らも含み社会問題化した。
当時の責任省庁である厚生省は昭和20年 9月20日に「戦災孤児等保護対策要綱」を発表し、戦災孤児らの保護として、
(1)個人家庭への保護委託 (2)養子縁組の斡旋 (3)集団保護の対策
をとることとしたが実効性に乏しく、戦災孤児らは自力で、或いは同じ境遇の者と集団で生活せざるを得なかった。靴磨きなど簡易な労働を行う者が多かったが窃盗団等を結成する場合も少なくなく、このことが後の戦災孤児の保護について治安対策の要素を帯びる要因となっている。
昭和20年12月15日に閣議決定された「生活困窮者緊急生活援護要綱」においては戦災孤児も含まれることとなり、続いて昭和21年 4月15日に「浮浪児その他の児童保護等の応急措置実施に関する件」、9月19日には「主要地方浮浪児等保護要綱」が発表されたが、これらの時点では『浮浪児』の用語が表すようにともかく保護施設への収容を目的とした政策であった。
一般孤児」とは「父母の病死等のため孤児となったもの」としているが、父母が共に病死する確率は極めて低いため、81,266人の大部分は戦災で父母が行方不明になった戦災孤児と考えるべきであろう。
1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲で大きな被害を受けた東京下町では、浅草区富士国民学校で66名、深川区深川国民学校で60名、本所区の中和国民学校では80名と、三校のみでも206名もの戦災孤児が出ているが、被災地域内の孤児の実態は把握されていない。
また、原爆で両親を失った原爆被災孤児が一般には6,500名と推定されていることや、地上戦が行われた沖縄の戦争孤児が、1954年1月の琉球政府調査によると、沖縄本島で3,000名に達している事実から見ても、全国の戦争・戦災孤児の数字が大きなものになることは推定できる。
12歳から17歳にいたる年齢層は、さかのぼれば学童であり、孤児になった疎開学童が多く含まれていることが考えられる。
1947年(昭和22年)8月現在の厚生省養護課調査では、浮浪児が全国で推定35,000名もいたとしており、戦争で親を失った孤児たちにとって、戦後の荒廃した時代を生きることは生易しいことではなかった。
孤児収容施設も不充分で、引き取り手がないまま浮浪児になったり、親戚をたらい回しにされたり、養子に出されたり、仕事でこき使われたりで、義務教育も満足に受けられない孤児も多かった。
これに対し、主にアメリカ人の宣教師が、児童養護施設を開設し、保護の手を差し伸べた。今もなお、民間の児童養護施設にキリスト教系が多いのは、この流れを汲んでいるものと思われる。
戦災孤児施設280ヶ所の内、国公立40・同援護会21に留まり、後は民間施設であった。孤児たちを支えたのは民間の善意だったのである。
こうした状況について、昭和21年10月にはGHQから戦災孤児・混血児問題等について福祉政策をとるようにとの指示が日本政府に下され、昭和22年には厚生省内に児童局が設置され、福祉の観点からの対策に取り組むこととなった。