チャイコフスキー

出典: Jinkawiki

2010年2月11日 (木) 22:32 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

目次

生い立ち

1840年4月25日、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(チャイコフスキーのファーストネーム)は、現在はロシア連邦に属するウドムルト共和国のヴォトキンスクでチャイコフスキー家の次男として生まれた。ヴォトキンスキの町は、モスクワから東へ約700キロ離れ、ウラル山脈の西側に沿ってカマ川が流れるかなりの僻地であった。ヴォトキンスクはカマ川沿いに多くあった製鉄場を統轄する町として1759年に建設された鉱山の町であった。

チャイコフスキー家はもともと貧しいコサックの出で、医師であった祖父ピョートルが長年の努力と研鑽の結果、貴族に叙せられた家系である。我らのピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの父イリヤー(1795-1880)は、この地方の製鉄場の監督官、さらに住民のもめ事まで裁判する権利を与えられていた。彼はフルートをたしなみ、文化的な家庭を築いていた。 ピョートルは5歳の頃には、ピアノをいじり始めた。家にあった当時の自動演奏装置オルケストリオンの奏でるモーツァルト、ロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの音楽に熱中し、その旋律をすぐピアノで弾いた。父親の催す音楽の集いがあった夜などは、感の強いピョートルは泣き叫んで寝つかなかったという。


べテルブルグ音楽院時代

ピョートルは1962年8月22日にべテルブルグ音楽院(ロシア初の音楽院)に入学願書を提出して第1期生になった。ピョートルはピアノにおいて優れていて、3ヶ月もしないうちに必修のピアノのクラスを免除されている。そして音楽院のあらゆる科目に勤勉で、並外れた優秀さを示した。音楽院に入って3年して音楽以外に自分の道はないと確信したようだ。1864年の夏、作曲家の学生に課題が出された。彼はオストロスキーの「雷雨」を標題にし、その序曲を書いた。彼は大チューバ、イングリッシュ・ホルン、ハープ、分奏によるヴァイオリンのトレモロ、大太鼓とシンバルといった当時としては異端的な管弦楽法を用いた。だが、師A.ルビンシテインの不興を買うことになる。この師はシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンといった時代に育っていたので、このような新しい動き、すなわちマイヤベーア、ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーといった管弦楽法には否定的であった。さらに当時ロシアで台頭していた国民楽派、すなわち5人組[バラキレフを代表とするボロディン、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ]とチャイコフスキーの師A.ルビンシテインの率いる音楽院派は激しく対立していたのである。


代表作

・序曲「1812年」

1812年、ヨーロッパの国々を次々と征服してきたナポレオンは、60万人の軍隊を率いてロシアの主都モスクワへ攻め入ってきた。どこの国の軍隊にも負け知らずだったナポレオン軍もロシアの冬の寒さには勝てなかった。さらに食糧不足とロシア軍の反撃にあって、完全に敗退したのだ。この闘いで破壊されたモスクワの大聖堂が、70年後の1882年に再建され、そのお祝いの祭が催された。このとき大聖堂の前の広場で初演されたのがこの曲だ。最初にチェロとビオラで清らかなキリスト教の聖歌が演奏されるが、おしよせるナポレオン軍に対する緊張が高まる。やがて遠くから軍隊の行進が近付き、始まった戦闘が荒々しいリズムと音階によって描かれている。フランス国家の「ラ・マルセイエーズ」が至るところで鳴り響いてナポレオン軍を表わすが、それに対するロシアは民謡調の美しいメロディーと素朴な舞曲だ。ナポレオン軍撃退の立役者が郷土の自然だったことへの、チャイコフスキーのなんとも粋な表現であった。最後には歓びに満ちた行進曲とともにロシア国歌が高らかに鳴り響いて曲が終わる。初演のときにはオーケストラに軍楽隊が加わり、本物の大砲が使われたそうだ。


・幻想序曲「ロメオとジュリエット」

チャイコフスキーの作品の中には、「ロメオとジュリエット」「テンペスト」「ハムレット」の3つのシェイクスピア作品による幻想序曲がある。「ロメオとジュリエット」はその最初の曲で、いまだ20代の若いチャイコフスキーが「ロシア五人組」のリーダー的存在のバラキレフの熱心な勧めによって作曲した。序曲とはいうものの、歌劇などの最初に演奏される曲ではなく、独立した曲でちゃんとソナタ形式で書かれている。ソナタ形式では第一主題、第二主題の対照的な2つの主題を中心に作曲されるが、この曲の第一主題はモンタギュー家とキャピュレット家の対立を表す激しいもの、第二主題はロメオとジュリエットの純愛を表す美しい旋律と、みごとなコントラストを示している。また、最初に出てくるメロディーは、重要な人物であるローレンス神父の宗教的な雰囲気をよく表している。 チャイコフスキーの作品といえば、何と言っても「曲の美しさ」である。イングリッシュホルンとビオラが演奏する第二主題を、リムスキー・コルサコフはロシア音楽で最も美しい旋律と評したそうだ。また旋律だけではなく、オーケストラの楽器の使い方による「音」の美しさもある。


・交響曲第4番

この交響曲を作曲した時期のチャイコフスキーは、いろいろと身辺に変化があった。文通をとおしてのパトロンであるフォン・メック夫人から援助を得て、作曲に没頭できるようになったことと、チャイコフスキーの芸術をまったく理解できない妻と結婚してしまったことだ。この悪妻から逃れるために自殺未遂までしたチャイコフスキーは、この第4交響曲を静養のために行ったイタリアのサン・レモのホテルで完成させた。 フォン・メック夫人にこの曲を説明した手紙には、この交響曲は標題性をもっていると書かれている。第1楽章~第4楽章まであり、運命、悲哀、幸福などがテーマになっている。


・交響曲第6番「悲愴」

チャイコフスキーの突然の死の直前に初演された最後の交響曲。第1楽章は、第1主題が短調、第2主題は長調になっている。当時はこの曲を聞いて世をはかなんで自殺した人もいたそうだ。第2楽章は、普通の交響曲ではゆっくりとした楽章がくるところだが、5拍子の舞曲風の楽章になっている。第3楽章は、交響曲本来の第3楽章であるスケルツォ的なものと、本来のフィナーレに相当するものが混ざった構成になっている。実際、第3楽章の圧倒的な終わり方に思わず拍手が起こり、第4楽章を始めるチャンスを失ってしまう演奏会もあるようだ。第4楽章は、ゆっくりとした、まさに悲愴感のただよう楽章だ。本来は第2楽章の位置にあってしかるべき楽章なのだが、チャイコフスキーの考えたプログラムではこれが終楽章に来なければならなかったのだろう。


参考文献

http://homepage2.nifty.com/pietro/storia/tchaikovsky_vita.html

http://www.ne.jp/asahi/leaf/man/music/tchaikovsky.html


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成