ピューリタン

出典: Jinkawiki

2010年2月12日 (金) 01:36 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

ピューリタン(Puritan)とは

ピューリタンは、イギリス国教会の改革を唱えたキリスト教のプロテスタントの大きなグループのことであり、市民革命の担い手となった存在である。清潔、潔白などを表す「Purity」に由来する(Puritanで厳格な人、潔癖な人を指すこともある)。

16-17世紀にイギリス国教会の中にカルヴァンの影響を受けた改革派が勢力を持つようになり、その中には国教会から分離せずに教会内部を改革しようとする者と、国教会から分離しようとする者(分離派:他の教派との相互聖餐を拒否)がおり、特に前者のことをピューリタンと呼ぶ。ピューリタンの中には祖国での弾圧を逃れ、1620年、メイフラワー号に乗りアメリカに移住した者もいる(ピルグリム・ファーザーズ)。オリバー・クロムウェルの清教徒革命(ピューリタン革命)の母体にもなった。


ピューリタン革命(清教徒革命)

ピューリタン革命または清教徒革命は、1641年から1649年にかけてイングランド・スコットランド・アイルランドで起きた内戦・革命である。広義には1638年の主教戦争から1660年の王政復古までを含み、「大反乱」「三王国戦争」もしくは名誉革命とあわせて「イギリス革命」「ブリテン革命」とも呼ばれている。


1、第一次内乱(1642~1646)


英国国教会制度を押し付けようとするイングランド国王チャールズ1世に対して、長老教会制度を国教とするスコットランドは反発し、1638年2月に国民盟約を起草して反乱を起こした。チャールズ1世は鎮圧軍の戦費を調達するために、1640年4月、11年ぶりに議会を開会したが、議会側がこれまでの国王の政策を批判したため、5月5日にわずか3週間で議会を解散させてしまう。

 国王と議会の対立を好機ととらえたスコットランド軍は国境を越えて侵攻すると、8月末にニューカースルを占領した。やむなくチャールズ1世は、スコットランドとのリポン講和条約に調印したものの賠償金支払いのため、11月に再び議会を開会する。この議会でも激しい批判にさらされたチャルーズ1世は、1642年1月、自ら兵士を率いて議会に乗り込み議会側の中心人物を反逆罪で逮捕しようとしたが、議会とロンドン市民の抵抗にあいロンドンを捨て北へ逃れた。ここに至り王党派と議会派との対立は決定的なものとなり、双方が兵を募り戦火を交える事となった。


 各地で散発的な戦闘が行われたが、戦局は王党派優勢のうちに推移していった。議会軍は、ロンドンをおさえ兵力でも国王軍に勝ってはいたが、その主力は各州ごとに編成された民兵隊であり、訓練状況が悪く指揮系統の統一も欠いていた。しかし、そうした中にあって、唯一オリバー・クロムウェル(1599~1658)率いる騎兵隊のみが、グランサム、ウィンチビーで勝利を重ね、次第に頭角をあらわしていった。クロムウェルの騎兵隊はピューリタン信仰によって高い志気と鉄の軍規を誇り、国王軍から「鉄騎隊」(アイアンサイド)と呼ばれ恐れられた。


 1643年9月、議会派とスコットランドとの間に「厳粛な同盟と契約」と呼ばれる同盟が成立したため、スコットランド軍が、翌年1月に国境を越えイングランド内へ侵攻してきた。背後を突かれてヨークにたてこもった北部国王軍と、支援に駆けつけたルパード王子軍の計1万7千は、それを包囲するトーマス・フェアファックス(1612~1671)率いるヨークシャー軍、マンチェスター伯率いる東部連合軍、およびスコットランド軍からなる議会軍2万6千とヨーク西方のマーストン・ムアで激突する。この会戦で議会軍はクロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、国王軍に死者約4000人、捕虜1500人の損害を与え大勝を収めた。

 しかし、議会軍は内部に国王に妥協的な長老派と革命の達成を目指す独立派の対立を抱えており、マーストン・ムアの勝利にもかかわらず戦局を優位に導く事が出来なかった。クロムウェルを中心とする独立派は、1645年2月17日に「ニュー・モデル条例」を議会を通過させて、兵力2万2千からなる「新型軍」(ニュー・モデル・アーミー)の編成を進めるとともに、4月3日には「辞退条例」を議会を通過させて軍首脳部から長老派を排除した。

 ネーズビーの戦い以降戦局は議会派優位に傾き、王党派は拠点をを次々に失い、オクスフォードに追い詰められた。1646年4月、変装してオクスフォードを脱出したチャールズ1世はスコットランド軍に投降し、後に残された国王軍も、6月20日に議会軍に降伏した。


第二次内乱(1648)


チャールズ1世の身柄は、1647年1月にスコットランド軍から議会側に引き渡され、その後は軍の監視下に置かれていた。しかし、1647年11月11日、チャールズ1世は軟禁されていたハンプトン・コート宮殿を脱出して、ワイト島のカリスブルック城へ逃亡する。ワイト島に移ったチャールズ1世はスコットランドと交渉をおこない、長老教会制度をみとめる事と引き換えに軍事援助を受けることで合意した。

 1648年1月、かたくなに妥協を拒むチャールズ1世に対して議会が「交渉打ち切り決議」を通過させると、ウェールズ、イングランド東南部で王党派が蜂起し、4月にはハミルトン侯(1609~49)率いるスコットランド軍が国境をこえて侵攻してきた。クロムウェルは南ウェールズを鎮圧すると、エンカシャを通り南下するスコットランド軍を迎撃するため北進した。クロムウェル率いる新型軍の兵力はハミルトン軍の半数に満たなかったが、敵の攻撃線を切断する作戦をとり、1648年8月、プレストンで圧勝した。さらに、東南部に向かった議会軍総司令官フェアファックスによって、コルチェスターが陥落したため第2次内乱は終結した。

 しかし、内乱終結後も議会内での長老派と独立派の対立は続いていた。1648年12月、プライド大佐率いる軍隊が議会を包囲して、「交渉打ち切り決議」を撤回してなおも国王との交渉を続けようとする長老派議員140名を追放した。議会はわずか60名の独立派議員を残すのみとなり、以後「ランプ(残部)議会」と呼ばれるようになる。

 1649年1月、特設裁判所設置法案がランプ議会で可決され、チャールズ1世は反逆罪で裁かれることとなった。1月27日、法廷はチャールズ1世に死刑判決を宣告し、1月30日、ホワイトホール宮殿でイギリス史上唯一の国王に対する処刑がおこなわれた。


参考文献

「王冠のないイギリス王オリバー・クロムウェル~ピューリタン革命史~」   著者:清水雅夫

「イギリス革命史 上 オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム」  著者:友清 理士


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成