租庸調

出典: Jinkawiki

2010年2月12日 (金) 11:12 の版; 最新版を表示
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租庸調 律令制度における税の主要なもののひとつ。

昔、租は「タチタラ」という古くからの言葉に租という漢字をあて、「タチタラ」と訓ぜられた。「タチタラ」とは「田力」から来ているとされ、田地からの収穫物である稲の一部を支配者に対して貢納する「田租」を意味しているといわれている。そのため、租は田租とも呼ばれた。 租は、田の面積に応じて課せられる土地税で、収穫の3パーセントの稲を地方の役所に収める仕組みとなっていた。収穫量は田地の面積によってきまり、田の良し悪しによる収穫高の影響は考慮されてはなかった。これは、水田を持っているものすべてに課せられたとされているが、実際には租を納めなくてもよい田地と租を納めなければならない田地が存在しており、前者を不輸租田、後者を輸租田といった。輸租田は、口分田・墾田・位田(位に対して与えられる田)・郡司職田(国司・郡司など官職に対して与えられる土地)・功田(功績によって与えられる田)がこれにあたり、神田・寺田・職分田(郡司職田以外の土地)等のほか官司所属の田など公的なものは不輸租田とされた。農民の耕地はそのほとんどが口分田ではあったが、余力があれば墾田を所有することもできた。いずれにしても対象となる田地を所有している者はすべて租を納めなければならない。 また、田租は江戸時代などと比較すると低率で、財政は田租に依存することなく、実際的には出挙によってまかなわれていた。出挙とは、国などが農民に対し大きな利子をつけて稲を貸し付けることを指し、年5~10割の利子も公認されていた。

調

計帳を基にして、課口と呼ばれる正丁(21歳~60歳の男)・次丁(61歳~65歳の男)・中男(17歳~20歳の男)に、絹・糸・真綿・特産物などが課せられた。計帳は、毎年作られ、本人確認のため容貌の特徴も記された。その内容は、正丁1人について、絹(細糸で織った絹)・絁(太糸で織った絹)は8尺5寸である。それ以外の雑物などで納める場合には、鉄10斤・塩3斗・鰒18斤・鰹35斤・烏賊30斤・海藻160斤など様々なものがあった。次丁・中男の場合は、正丁の四分の一を納めることとした。これらは、都の中央の役所に直接納入するため、その運脚は公平な方法で調を納める義務がある戸から出さなければならなかった。運脚を出さない場合には、運脚の食料や手間賃、また運脚に代わる品を用意する必要があった。また、それにかかる往復の費用をすべて自分で負担しなくてはならず、課税内容そのものよりも、それにかかる労力が負担となり、帰路で亡くなる人もいた。これは庸の運搬にも共通している。

庸とは、正丁の男に課せられた歳役の代わりとしての布のこと。布1日分を2尺6寸とし、10日の労役に相当する布が指定されたが、それ以外で郷土の産物でもよい。これらもまた、調と同様、庸も都に直接納入しなければならなかったとされ、農民にとって大きな負担となったといえる。しかし中男と京と機内については、庸が免除された。 また、本来課せられるはずであった歳役とは、正丁は年間10日間京における労役に服するといったもので、ここで必要な食料は自分で賄うことを原則とした。歳役を終えて、さらに30日の労役に服した場合には。租と調が免除された。次丁も正丁の半分の5日の間都で労役を課せられたが、同じ国郡の人を雇ったり、自家の家人(奴隷に近い賤民)を代わりに差し出してもよいとされた。


律令では主な税は給田された丁男に課せられていたおり、皇族・高級官僚・20歳以下60歳以上の男子・僧侶・道士・女子などは免除された。そのため、男を女と偽って届けるなどして戸籍をごまかし、班田収授の台帳としての役割を果たせなくなった。


参考文献

「古代の税制」 田名網宏 日本歴史新書

「中学社会 歴史的分野」 大阪書籍

「広辞苑 第5版」 岩波新書

「世界史事典 三訂版」 旺文社


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