竹中半兵衛重治

出典: Jinkawiki

2010年2月12日 (金) 19:56 の版; 最新版を表示
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天文13年(1544)、重元の子として美濃国に生まれる。はじめ重虎と名乗り、のちに重治と改める。通称は半兵衛。
織田信長が、数年間にわたり全力を傾けても落ちない城があった。斎藤龍興が拠点としている美濃国の稲葉山城(岐阜城)である。その城をわずか16人を率いて乗っ取ってしまったのが、竹中半兵衛重治である。

半兵衛は龍興に仕えていたが、病弱で婦女のような顔をしていたので、日頃から家中で軽んじられていた。城に出仕した帰り道、龍興の寵臣たちが石垣の上から半兵衛に小便をかけたりした。 その夜、半兵衛は郎党16人を連れて城内に入り、長持ちに隠した武器を手にとり、6人の寵臣を斬って捨てたのである。このおり、龍興はあわてて城を逃れた。 信長がこれを知ると、「稲葉山城を明け渡したら美濃半国を与えよう」と半兵衛に言い寄ったが、半兵衛の目的は龍興の寵臣をのぞくことにあり、龍興が反省したとみるや城を返還し、自身は山里に隠棲してしまった。

永禄10年(1567)、美濃を制圧した信長は半兵衛を家臣にしたいと考え、羽柴秀吉を遣わした。半兵衛は丁重に秀吉の申し出を断ったが、秀吉は何度拒否されてもやってくる。訪問6度に及び、とうとうその熱意に折れ、秀吉の直臣になる条件で織田家への臣従を承諾する。それからの半兵衛の活躍はすさまじい。得意の策略で次々と諸城を落とし、何度も信長から褒賞を与えられた。「半兵衛という男、戦いに臨んでも静まり返っている。しかし、彼の向かうところ必ず勝った。兵は半兵衛と行動を共にするとき、『すでに勝った』と勇み立った。」、そう『常山紀談』という古記録は伝えている。

天正6年(1568)10月、信長の重臣で摂津国(大阪府)有岡城主・荒木村重が謀反を起こした。秀吉は黒田官兵衛を差し向け、村重の説得にあたらせた。ところが、官兵衛が有岡城から戻らない。「裏切って荒木に通じたのだ」、そう信じた信長は官兵衛の子・長政を殺せと秀吉に命じた。官兵衛を信頼していた半兵衛は、殺すといつわって長政を長浜城から連れ出し、居城にかくまった。 翌年9月、落城した有岡城から官兵衛が救い出された。牢に監禁されていたのだ。例の一件を聞いた官兵衛は半兵衛の行為に心から感謝したが、このとき半兵衛は、すでにこの世の人ではなかった。 三木城包囲戦の参謀としての激務が半兵衛の命を奪ったのである。秀吉は発病した半兵衛を、一時京都で療養させたのだが、「どうせ死ぬのなら、わたしは陣中で死にたい」と陣中に戻ってきてしまい、それがいっそう死期を早め、同年6月13日、半兵衛は36年という短い生涯を硝煙の中で静かに閉じたのだ。


参考文献

・「ふるさとの戦国武将」学研


  人間科学大事典

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