黒田長政

出典: Jinkawiki

2010年2月12日 (金) 20:34 の版; 最新版を表示
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黒田長政は子供のころから豊臣秀吉に臣従し、賤ヶ岳の戦いを振り出しに多くの軍功をあげ、豊臣政権では武功派に属した。そんなことから吏僚派の石田三成と反目、慶長5年6月には家康の養女・栄姫と結婚し、関ヶ原合戦では東軍に参加した。戦いでは軍功第一とされたが、当日の戦闘が評価されたのではなく、戦争前の活躍によるものだ。
合戦当日、東軍の背後・南宮山にいた西軍の毛利・長宗我部・長束軍は動かなかった。毛利軍といえば、総大将・輝元の軍隊だ。輝元は大坂城におり、同郡を率いたのは毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家(輝元の従兄弟)である。秀元と恵瓊は戦うつもりだったが、前方の広家隊が家康に内通して動かなかったので進めなくなった。毛利が動かぬゆえ、近くの長宗我部・長束軍も警戒して出撃しなかったのだ。広家が寝返ったのは、じつは長政の巧みな離間工作の結果だった。同じく小早川秀秋の裏切りも長政の功績だった。長政は秀秋に「もし裏切れば、家康はあなたに上方2国を与えるだろう」と誘い、小早川軍が当日、雪崩をうって西軍へ突入したことで戦況が変わり、東軍の圧倒的勝利となったのだ。そこで家康は、長政の働きに感謝し、感極まって長政の手を強く握りしめたという。
ただこのおり、長政の実父・官兵衛は、密かに天下簒奪をたくらみ、九州平定に乗り出したところだった。少なくても東西両軍の対立は数ヶ月つづき、この間、官兵衛は九州を平定して西上し、勝ったほうと雌雄を決しようと考えていた。それがわずか半日で天下の帰趨が決まってしまい、しかも、その功労者が自分の息子だったことを知り、激怒した。長政が父に「家康殿が自分の手を握って感謝した」と述べた時、官兵衛は「握った手は右手か左手か」と聞き、「右手です」と答えると、「ならば左手は何をしていたんだ」と怒鳴ったという。なぜ刺し殺さなかったのかという痛烈な皮肉が込められているのだ。


参考文献 ・「ふるさとの戦国武将」学研


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