佐々木小次郎
出典: Jinkawiki
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佐々木小次郎
近世初期の剣客。その伝は明らかではないが、越前朝倉氏の本拠一乗谷に近い浄教寺村の出身と伝え、幼少より剣を好み、中条流の富田勢源、あるいは勢源の弟子鐘捲自斎(かねまきじさい)の門に学んだという。のち諸国を歴遊し、いわゆる燕(つばめ)返しの秘剣を案出して一流をたて、巌流を称し、小倉藩主細川忠興に仕えた。1612年(慶長17)関門海峡にある船島(俗に巌流島)で、3尺余の太刀を振るって宮本武蔵当時29歳と勝負を争い、敗死したと伝えられている。なおこの一件の背景なども不分明で、疑問の多い人物ではある。
燕返し
燕返しは伝説では岩国の錦帯橋の近くで空を飛ぶ燕を切り落とすことで自得したとされている。別名を「虎切り」と言って、この用法が「撃剣叢談」という兵法書に出ている。「大太刀を真っ向に拝み打ちするようにつかつかと進み、敵の鼻先を目付きにして、やにわに平地まで打ち込む。打つなりかがみこみ、打ち下ろした刀を担ぎ上げて勝つ」。はじめの拝み打ちはフェイントで、担ぎ上げる太刀に勝負をかける「返し技」と解すことができる。
小次郎の謎
小次郎を武蔵の好敵手として扱う「二天記」において、彼は越前国(福井県)宇坂ノ庄浄教寺村の出身で、富田流宗家の富田五郎左衛門入道勢源に師事していたとある。3尺(約1メートル)の太刀を振るっているうちに長太刀の扱いが得意になり、自ら一流を興す。これが「巌流」である。 しかし、二天記は宮本武蔵の死後100年以上も経ってから、武蔵の弟子達によって書かれた本であり、佐々木小次郎については実はその記述の信憑性は薄い。
と、いうのも。現在は巌流島と呼ばれる二人が決闘をした島。関門海峡の船島(長門側から見た名前で豊前がわからは向島よ呼ばれていた)で慶長17年に二人が決闘した時、佐々木小次郎は18歳であったと書かれているが、同署にかかれている富田勢源の全盛期が永禄年間ごろ、1558~70年であり、同じ二天記で矛盾が生じてしまう。 18~70歳まで、小次郎の年齢には諸説あるというのが一点。そして、最大の問題が、当の決闘をした宮本武蔵の記した「五輪書」には、佐々木小次郎が登場しない。 武蔵が書いた書物には登場せず、弟子が書いた書物には登場する。武蔵の弟子が、武蔵を引き立てるために武蔵とは反対に眉目秀麗で、剣にこだわり、物干竿と呼ばれるくらいに長い剣にこだわる剣士を創作して、武蔵の人生を引き立てた。とも考えられている。