オウム真理教1

出典: Jinkawiki

2010年8月10日 (火) 13:08 の版; 最新版を表示
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オウム真理教

教団の特色 当初はヨーガを軸にした仏教系の新興教団でしたが、麻原尊師の暴走によって極悪違法集団へと没落してしまいました。なお、教義はインドの思想を色濃く反映しており、仏教をベースにしながらもシヴァ神(ヒンズー教の神様)を崇拝対象にしています。オウム解散後も任意団体「アーレフ」として存続しています。

オウム真理教の歴史 オウム真理教の開祖であり教祖である麻原彰晃(本名:松本智津夫)は、昭和30年に熊本県八代市に生まれた。生まれつき目が悪く、右0.3、左は失明状態であるという。小学校から高校まで熊本県立盲学校に学び、針灸師の資格を取得して上京、しばらくは針灸治療の仕事をしていた。この頃、妻・智子と知り合い結婚している。

後に漢方に興味を持ち、昭和53年から昭和55年には「漢方亜細亜堂薬局」を、昭和56年には「BMA薬局」を経営していた。亜細亜堂薬局時代には保険料を不正請求し国から返還を求められており、BMA薬局時代にはニセ薬の販売で薬事法違反に問われ、略式起訴処分を受けている。

薬事法違反により薬局経営を断念せざるを得なくなった麻原は、漢方をあきらめヨーガに興味を持ち、これが昂じて昭和59年、東京都渋谷区にヨーガ道場「オウム神仙の会」を設立した。きわめて初期の頃からこの会の会員であった(麻原の一番弟子といわれる)のがケイマ大師こと石井久子女史である。彼女は麻原の愛人として麻原との間に3人の女児をもうけている。

オウム神仙の会では、ヨーガを追求するうち、これがやがて「修行」的な要素を帯びてくる。そうしてさらなる会員と収入の増加を目論んだ麻原は、ヨーガを用いた修行を活動の中心とした宗教団体にすることを思い立ち、オウム神仙の会を名称変更し「オウム真理教」とした。この頃、麻原は単身ヒマラヤに入り、そこで修行を積んで最終解脱したとされている。大物宗教家との交流もあると自称しており、たとえばチベット仏教(ラマ教)の最高指導者ダライ・ラマ14世は、日本における仏教革命の最高責任者の任を麻原に与えたとしている。(もちろんダライ・ラマ14世自身はそのような事実はないと否定している)

そして平成元年、東京都知事よりついに宗教法人の認可が下り、ほどなくして本部を静岡県富士宮市に移転するなど教団は急激に発展した。同時にこの頃からマスコミにも取り上げられるようになった。修行のために出家を勧めることや、多額のお布施を強要する、教祖の生血や入浴後の残り湯を飲むなどの悪行奇行が重なり、サンデー毎日などの週刊誌においては排斥キャンペーンが張られるほどになった。

こうして数々の疑惑や非難を受けつつも実質野放しのまま、教団の勢力は拡大の一途をたどり、宗教法人認可の翌年には政治にも進出をはかるが、ここからオウムの進路が狂い始めた。麻原はじめ幹部数名は「真理党」を旗揚げし、平成2年に総選挙に出馬したが結局一人も当選者を出すことはなく、信者は動揺し麻原への帰依も弱まってしまった。そのうち下向(脱会)するものもでてきたことから、麻原は信者の統率と自分のカリスマを保つため、これを反対勢力のせいにした。すなわち選挙に落選したのは反対勢力が票を操作したのだと信者をいいくるめ、また同時に自分の勢力を拡大していくには正当な手段ではもはや不可能と判断、このころより麻原は究極の真理実践法とする「ヴァジラヤーナの教え」を説法するようになり、真理のためなら殺人も善行であるとくりかえし発言している。そうして教団は武装化に邁進するようになった。教団の出発時は「全人類の救済」が目的だったはずのオウム真理教は、ここにきて手段と目的がひっくり返り、真理の名を語るただの犯罪集団へと成り下がったのである。

しかし、武装化の計画はなかなかうまくいかなかった。麻原は大量殺人による首都殲滅と国家転覆を計画し、そのための大量殺人兵器として当初は細菌兵器の開発を試みたが、最初にとりかかったボツリヌス菌(食中毒の原因にもなる致死率の高い細菌で、神経に作用する)の培養に失敗。ついで炭岨菌も失敗。

そして平成6年6月、ついにサリンによる最初の犠牲者がでることになった。松本サリン事件である。松本市の裁判官宿舎にむけて噴霧されたはずのサリンは、ターゲットではなく無関係の一般市民を巻き込んだ。が、これでますますその威力を思い知った麻原は、土谷に日産2トンのサリン生成を命じ、そのための製造施設の建設を早川紀代秀(教団建設省トップ)に命じた。が、警察・公安当局はオウムがサリン製造を行っているとする物的証拠を徐々に集めつつあり、麻原は平成7年3月中旬に上九一色村のサティアンに強制捜査が入るとの情報を得た。麻原は捜査を妨害するためおよび警察・公安当局の捜査員を殺害するために幹部に命じ、平成7年3月20日、地下鉄サリン事件をおこした。警察・公安当局のある霞ヶ関を中心に朝の通勤ラッシュ時間帯を狙って地下鉄にサリンをばらまいたのである。残念なことに、これは警察がサティアンに強制捜査に踏み入る2日前のことであった。地下鉄という密閉空間であったことと、ラッシュアワーで大量に人がいたため、松本のときよりもずっと多くの被害者を出した。

これらサリンによる犯罪は、これまでにない新しい手法(毒ガスの大量散布)による大きな事件となり、また宗教法人がおこした犯罪の中でもこれほど重大な犯罪は過去に例がない。坂本弁護士事件のときもそうだったが、公安当局は結果として手段を講じるのが遅れ、大勢の被害者を出してしまった。

参照URL http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/aum-shinrikyo.html


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