砂漠緑地化
出典: Jinkawiki
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砂漠緑地化
中国内蒙古自治区の砂漠化に対する最大の要因はヒツジ・ヤギの過放牧である。これは自然の回復能力を上回る数の家畜を放牧することで、草が根こそぎ食べられ砂漠化するものだ。根茎も食べつくされるため翌年新しい芽が出てこなくなり、そして根がなくなることで砂の移動が起こる。露出した砂地には木や草など風を遮るものがなくなることで風が吹き抜けるようになり、あるきっかけ(木の切り株や石などのある場所)で砂が集まりはじめ、それが流動化し流動砂丘となり植生のある地までも飲み込んでいく。
これ以外の原因に木材や薪確保のための樹木の伐採、過開墾など様々な要因があげられる。これらはいずれもその地に住む人々の生活習慣やその地の産業が大きく係わっている。そして砂漠化の進む地域には必ずといってよいほど「貧困」という問題も潜んでいる。
貧困の原因は様々だが、クブチ砂漠周辺を例にすると、農業を行なうにも少雨で植生が不安定で簡単な作物しか育たず、旱魃が起これば収穫量も激減する。だからある程度安定した収入が得られるヤギやヒツジを飼うことで生計を成り立たせることが、最もこれらの地に適しているといえる。しかし生活が十分に潤うほどの収入は得られず、粗放農業地や放牧地では貧しい人が多いのが現状だ。そういった人たちがより豊かになろうとすれば、家畜の頭数を増やすほかなく、気がつけば過放牧となり砂漠化が進み、放牧すらできない環境に陥ってしまう。こうして砂漠化は更なる貧困を引き起こし、悪循環を続けてしまうのだ。
やはり砂漠化を防ぎ、緑化を進めていくことがとても大切であることは地球環境、そしてそこに住む人々のためにも大切である。しかし、ただ砂漠緑化を進めていけば良いという簡単な問題でもない。その地に抱えている問題、砂漠化を招いている原因などを十分に理解したうえで緑化を進めていかなければ、その活動は無駄なものとなってしまう。 日本人は「砂漠緑化」をイメージするとき、多くの方々が砂漠に「森」をつくる姿を想像すると思う。これは、日本には温暖湿潤気候により年間を通して多種多様な樹木が存在し「森林」が身近な存在にあり、緑あふれる風景といえば「森林」を連想させるためだ。しかし、この光景を環境の厳しい砂漠に結びつけるのはやはり間違いといえる。
砂漠でもポプラのように厳しい環境に耐えることのできる樹木であれば生育は可能だ。だからポプラの森をつくることはそれほど難しいことではない。ただし、これは砂の移動のない砂漠に近い土地に限られる。つまり最も問題とされる「流動砂丘」をポプラなどの樹木で緑化することは現実的に考えて難しいということだ。流動砂丘の中でも砂丘と砂丘の間のくぼ地(丘間地)など生育できる場所もあるが、植えたところで砂丘は移動してしまう。いずれ根が露出するか、あるいは砂丘に埋もれるかどちらかになる。こういった樹木が防風効果を持ち、砂の移動を止めるという人もいる。しかし風に乗りそして偏西風に乗り、中国から日本まで黄砂として飛んでくる砂漠の砂だ。木で風を少し防いだところで砂の移動が止まるはずがない。
今だ多くの砂漠緑化団体はポプラの植林を行い、森をつくる活動を続けている。しかし前述のとおり、森は砂丘ではなく砂丘に近い土地につくられている。これが大きな問題になる。「緑化しやすいところから緑化する」。しかしそこには今まで何とか生活してきた人々が住んでいるということを忘れてはいけない。木が植えられるところには草も生えている。つまりそこに住む人々は、そこで放牧などをして生活をしてきているということだ。こうした人々の生活の場を奪い、なおかつこの森を保護していくようにといってもそれは無茶というものだ。こういったことで、砂漠緑化団体と地元民とで対立が起こっている地域は本当に沢山ある。たとえ一時期森ができたとしても、緑化団体が撤退した後どうなるかは容易に想像ができる。砂漠緑化をすることで地元の人々をより貧困化させてしまっては意味がない。
砂漠緑化は木を植えればよいという簡単な問題ではない。それはそれぞれの緑化団体がその地の現状をよく理解していればわかることだ。現地を知らない人たちが指揮を執って活動を進めても、本当の砂漠緑化はできない。 砂漠緑化団体の行なう砂漠緑化活動には限界がある。これは資金的・期間的の両面の問題からいえる。資金的に見れば、寄付や助成金などで緑化を進めていくわけだが、これらの資金が途絶えてしまえば、活動は収縮せざるを得ない。また期間的に見れば、同じ場所で永久的に活動を続けるわけにはいかない。いつかはその地を撤退し、別の場所へ移動しなければならない。