藤原冬嗣
出典: Jinkawiki
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藤原冬嗣
1. 人物
藤原冬嗣(775-826)北家の右大臣、藤原内麻呂の二男。母は、飛鳥部奈止麻呂の娘とも、百済宿禰永継ともいわれている。嵯峨天皇の東宮時代に春宮大進、春宮亮を務め、天皇即位後は昇進がはやかった。810年(弘仁元年)の薬子の変の年に、蔵人所をおいたときに巨勢野足とともに蔵人頭となった。薬子の変のとき、冬嗣の父内麻呂は自身の立場を明らかにせず長男真夏と、冬嗣をそれぞれにつかせ保身をはかったとされる。その後造宮使・左衛士督・春宮大夫・式部大輔・美作守などを拝命し、従四位上となる。嵯峨天皇の信任は厚かったとされる。そして冬嗣は、自身の近親者を天皇のそばに近いところに自らおくようにし、天皇に近い地位を意識していた。 順調に昇進していき、825年(天長2年)に桓武朝以来となっていた左大臣の地位まで上りつめる。そして嵯峨朝および、淳和朝初期の重要政務に関与することとなる。また、勅令を受け、内裏式、弘仁格式を撰修した。藤原北家による摂関政治の基礎を築いた。それとともに、一門の子弟のため氏寺興福寺に南円堂を建て、勧学院を設立。貧民のために施薬院を設立した。私邸が閑院邸とされたことから、閑院左大臣とも言われる。 826年(天長3年)7月24日に死去。死後2日後に正一位を追贈され、山城国愛宕郡深草山に葬られる。850年(嘉祥3年)文徳天皇即位の際、太政大臣を追贈される。また、藤原冬嗣の漢詩は文華秀麗集、経国集に収められている。
2. 文華秀麗集
818年(弘仁9年)ごろに成立。凌雲集につづく2番目の勅撰漢詩文集。嵯峨天皇、巨勢識人らがおもな作者。藤原冬嗣、菅原清公、仲雄王らが編集した。全3巻で28人148首を集録。女性や、渤海使節の漢詩も含まれている。作品の配列は、階級ではなく11にわかれた類題ごとになっているのが特徴。凌雲集のときより、長編が増え、文辞も更に洗練されている。
3. 経国集
827年(天長4年)ごろに成立。凌雲集、文華秀麗集につづく3番目の勅撰漢詩文集。この3つをあわせて勅撰三集と呼ばれる。707年以降の178人の作品が1000余篇。前2集は漢詩集だが、この集は文章も含まれている。作者は、淳和天皇、石上宅嗣、空海ら。淳和天皇直により桓武天皇の子の良岑安世、滋野貞主、南淵弘貞、菅原清公らが編纂する。全20巻中現存は6巻。
4. 参考文献
藤原冬嗣 http://www2u.biglobe.ne.jp/~heian/kenkyu/retuden/heiannbito/kugyofu1.htm (2011.1.12参照)
全国名前辞典 http://fine-vn.com/cat_42/ent_28.html (2011.1.12参照)
史料リスト http://www.nagai-bunko.com/shuushien/siryou/hei/uta/hei-uta.htm (2011.1.12参照)
文華秀麗集 http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CA%B8%B2%DA%BD%A8%CE%EF%BD%B8 (2011.1.17参照)
漢詩の予備知識 http://www11.plala.or.jp/touzan/nagare.htm (2011.1.17参照)