ホームスクール3
出典: Jinkawiki
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ホームスクールとは、親が子どもを学校へ通わせず、家庭で自ら教育し、それが就学形態の一つとして認められているものである。アメリカでは現在、州の法制の中で次の3つの方法のどれかに位置づけられている。第一に最も多い類型として、就学義務を課する州の法制の例外として認めるものである。二番目は、ホームスクールに私立学校の地位を認め、他の私立学校とほとんど同様の規制に服されるものである。三番目には、近年きわめて増加しており、特に過去10年間にホームスクールを公に承認した州においてみられる方法であるが、ホームスクールの設立と運営にかかわる特例法を制定するものである。いずれにしても、ホームスクールを行っている親たちが子どもを家庭で教育する責任を引き受けるに至った背景には、公教育に対する強い批判がある。(特に、宗教的信念である場合が多い)しかし今日では、例えば音楽と理科は地域の学校で教育を受けさせその他の教育は自分が家庭で行うというような親も現れ、学校を教育資源の一つとして積極的に活用するなど多様化している。
目次 |
ホームスクールの経緯
1.1公教育批判
1960年代の後半から1970年の前半に、ジョン・ホルトやイワン・イリイチといった教育評論家の研究により、公教育に対する不満が噴出した。これは評論家たちが、公教育の嘆かわしい事態に気付いたことから始まった。それゆえ、この時期には公立学校の欠点に関する資料や出版物が多く出されている。1950年代後半と1960年代前半までには、公教育に対する新たな批判が出現した。今度は、知性と厳密な思考力を育てることに失敗したとして執拗な攻撃に晒されることになった。特に、ソ連がスプートニック一号を打ち上げた後に、非難が噴出した。非難の多くはビジネス界からであったが、公立学校のカリキュラムから「余分なもの」を排除する必要があるということに集中した。この何十年にもわたる公教育に対する議論や公教育批判が、私立学校とホームスクールを増加させることになった。
1.2裁判による認知
1925年、合衆国最高裁は子どもはすべて公立学校に通わなくてはならないと定めたオレゴン州法を無効とした。この判決で最高裁は「公立学校の教師だけから教育を受けることを強制することで子どもを画一化する州のいかなる一般的な権限をも排除する」と判断したのである。アメリカの就学義務法のもとでは、親は自分の子供が教育を受けるかどうかを決定する権利はないが、その教育がどこで行われているかについてはある程度決めることができると理解されている。アメリカにおいて「学校教育に代えて親の家庭教育の自由」を認定した判例としては、1950年のレビゼン事件において就学義務を拒否する親の訴えを認めたイリノイ州最高裁の認めた判決、1978年のフリッツエレ事件で就学に代わるホームスクールの認容基準を示したマサチューセッツ州最高裁の判決が代表的なものとされている。ホームスクールの存在が次第に認知されるようになった背景には、1972年のアーミッシュの親に八学年以降自分の子どもを教育することを認めたウィスコンシン州ヨーダーの訴訟における合衆国最高裁判所判決をはじめ、70年代に続出した訴訟の結果がある。
ホームスクールを行う親
ホームスクールを行っている親の傾向として、次の4つがある。①白人の中産階級が多く、主として伝統的な核家族の比較的若い親である。またこれらの親たちは、一般的に高度な教育を受けており、父親は仕事時間にかなりの融通性と自主性のある環境のもとに働いている。②宗教的志向性が強い。③政治的に保守的で共和党に属している。④広範囲にわたる社会制度をほとんど信頼していない。しかし、これはあくまで統計によって明らかになった傾向であり、この傾向に属さない親教師も存在する。
課題
ホームスクールを実践している親にとって、子供たちの孤立は大きな課題である。子どものために知的な関心や興味を共有できる友人をどうやって見つけるのか、子どもが昼間の時間をどう過ごすのかといったことが親たちの共通の悩みとなっている。しかし、この悩みを持つ親がそのことを理由として学校へ子どもを戻そうとは思っていない。ホームスクールは隣人や同年齢の子どもたちと切れてしまうという問題を本質的に捉えている。したがって、ホームスクールの親たちは子どもの孤立を避けるために組織をつくるのに熱心である。ホームスクールについては子どもに関する調査が最も欠けているため、今後子どもたちが家庭で教育を受けることについてどのように考えているかが研究課題とされている。
参考
『ホームスクールの時代』マラリー・メイベリー/J・ゲーリー・ノウルズ/ブライアン・レイ/スティシー・マーロウ 秦明夫 山田達雄 監訳 東信堂