フレネ教育4
出典: Jinkawiki
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フレネ教育とは、フランスの教育者セレスタン・フレネ(1886~1966)が提唱した子どもを主体とし、具体的実践を重視した教育法である。それまでの伝統的な教師の権威、理念を絶対的なものとする権威主義的な教育方法に意義を申し立て、学校教育に子ども達の手による自由テキストや学校間での通信、印刷物などを取り込み、自発的な協同学習を通して子どもたちの人間性を養うことを目的とした「積極方式」と呼ばれるスタイルを生み出した。
1セレスタン・フレネ
セレスタン・フレネ(Celestin Freinet,1869年~1966年)は、フランスの教育者。 フレネはニースの師範学校在学中に召集され、第一次世界大戦に従軍する。その際、ドイツ軍の毒ガスによって胸を焼かれ、声を出すのに不自由な身となる。当時フランスの伝統的な教育は「模倣」と「詰め込み」であったが、大きな声を出すことの出来ないフレネにとって従来の教育は向いていなかった。1920年、パール・シュル・ルーの小学校に赴任したフレネは、国際新教育連盟結成大会に参加し、新教育思想の摂取につとめたり、ハンブルグのアナーキストの学校見学に行き、実践的なイメージを作ろうとした。しかし、その中で特に興味を引いたのは、フェリエールの活動学校の主張や、ドクロリーの興味論であった。フレネはそれらの教育の性格に飽き足らず、より民主的な教育を求め1925年にソ連を訪問し様々な学校を見て回った。その中でも特に、モスクワの中学校で行われていたダルトン・プランは、教科書による一斉授業から脱却する方向を模索していたフレネにとって強い刺激となった。教科書による一斉授業廃止を提唱し、子どもの個人学習を重視しつつ、個性化と協同化の二つを実践した教育を行った。
2フレネ教育における方法と技術
2.1 学校印刷所
フレネは子ども達の生き生きとした興味を引き出すために散歩教室(classes-promenades)に取り組んだ。散歩教室の後、子ども達の言葉を黒板に書くと、子どもたちは活気づき、喜んで読みノートに写していた。しかし、黒板は消されてしまうためフレネは子どもの思考を確定的な文章に結びつける方法として印刷機に注目した。散歩をして感じたことを表現し、それを教科書の代わりテキストとして教材化することが出来れば、興味を引き出すことが出来るのではないかと考えたのである。こうして彼のクラスに印刷機が導入された。しかし印刷されるものは原則として一編であったため、この一編を決定するためにテキストの選択(choix du texte)が行われた。フレネはこの選択が子ども達だけでなく、教師も参加する共同体によってなされなければならないと考えていたため、子どもも教師も等しく一票を投ずる権利を持つようにした。こうして選ばれた一編を印刷し、テキストとして使用した。
2.2自由テキスト
フランスの作文教育は全体として、全ての学習の基礎であるとともに、学習の成果を表現する力を育てるものとして考えられていた。基本的な文型の練習から初め、その応用文を書くという作文は、子どもの自由な生活表現ではなく、フランス語による表現力の基礎訓練そのものであった。これに対して、フレネが行った「自由テキスト」はあるテーマを与えられるのではなく、子どもが書きたいときに、思いついたテーマで自由に書くというものだった。子どもの中に湧き出るものの表現、意欲や要求から生まれる表現である自由テキストは、それゆえ生活像として子どもを最も揺り動かすもの、最も深く興味を引くものとなり最も高い教育的効力となるとフレネは確信していた。
2.3学校間通信
テキストの選択を経て印刷されたものは学校文集としてまとめられた。1924年から学校文集は交換されるようになり、学校間通信へと発展した。バル・シュル・ルーという南フランスの山間のフレネ学校と、トレガンという北フランスの漁村の学校の文集交換と手紙のやり取りは、全く異なる生活環境で過ごす子供たちにカルチャーショックを与えた。普段一緒に生活をしている関係の中では、わざわざ詳しい文章を書こうとはしないが、クラスでの出来事を知らない親や地域の住民たち、さらにクラスでの出来事だけでなく地域の生活習慣を知らない学校間通信の相手の子どもたちに自分たちの生活を分かりやすく伝えるためには、何をどう詳しく書けばよいのかということを考えるようになった。このような関係に位置付けられた「詳しく綴る」という営みこそが、カルチャーショックとともに、自分達の生活を見つめなおす機会になっていった。 現在では、フランス国内の学校ばかりでなく、諸外国の学校の子どもたちとの交流も進んでいる。
3参考
『フレネ教育 生活表現と個性化教育』佐藤広和 青木書店
『フレネ教育の誕生』エリーズ・フレネ著 名和道子訳 現代書館