福島県
出典: Jinkawiki
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福島県は、東北地方の一番南、東京からはおおむね200キロメートル圏内に位置しており、人口は、2008(平成20)年10月1日現在で、2,055,496人となっている。面積は、13,782平方キロメートルで、全国では、北海道、岩手県についで3番目の広さである。 南から北へつらなる阿武隈(あぶくま)高地と奥羽(おうう)山脈によって、中通り・会津・浜通りの3つの地方に分けられっており、同じ福島県内でも、この3つの地方では、気候が大変異なる。中通り地方は、日本海側と太平洋側の気候の中間の気候であり、夏は山間部ではそれほど暑くならないが、盆地ではかなり蒸し暑くなる。冬は冷たい風が吹き、雪も 降る。 会津地方は、日本海側の気候で、夏は、山間部では涼しくなるが、盆地では蒸し暑くなる。冬は、たくさんの雪が降り、気温もかなり低くなる。 浜通り地方は、太平洋側の気候で、梅雨の時期と秋に雨が多く、夏も海からの涼しい風が吹き、それほど気温が上がらない。冬は、県内で一番暖かく、雪がほとんど降らない。 明治9年に、当時の若松県、磐前(いわさき)県、福島県が合併して、現在とほぼ同じ姿の福島県が誕生した。 「福島」の名称は、そのころの県庁所在地だった福島町から取ったものであるが、文禄2年(1593年)ごろ、木村吉清によって、福島城として使われたのが初めてだといわれている。なお、詳細な由来は不明とされている。「福島県史」「図説福島市史」より 福島の中心街一帯はかつて信夫の里の杉目(すぎのめ)郷と呼ばれた地域にあたり、目の前に阿武隈川をのぞんだ土地。ここに応永20年(1413年)ころ、当時の伊達盆地の支配者である伊達持宗が杉目城(大仏城=だいぶつじょう)を築き、福島が町になる転機をつくった。 伊達氏はこのあと、独眼竜政宗の時代に、中通りと会津の全域を支配するまでに育ったものの、天正18年(1590年)天下を握った豊臣秀吉に追われ、さらに北方の土地へと移っていく。 新しく中通りと会津の支配者となったのは秀吉の信任厚い蒲生氏郷(がもううじさと)である。氏郷は会津黒川城を本拠とし、伊達盆地の杉目城をその支城としていたが、城の名を縁起のいいものにするため、黒川を若松に、杉目を福島にしたと伝えられている。福島の名は福にあやかったもののようである。「ふるさと再発見20」より 伝説集「信夫伊達風土記」には次のような由来も書かれている。 信夫(しのぶ)郡は昔、見渡す限りの湖で真ん中に信夫山(しのぶやま)があった。この山には吾妻(あづま)おろしが吹きつけていたため、吹島(ふくしま)と呼ばれるようになった。その後、長い歳月を経て、湖が干上がり陸地ができ、次々と集落が生まれた。吹島は風が吹きつけることをきらって、吹を福とし、福島と呼ぶようになった。「信夫伊達風土記」より 。 県内では、それぞれの地域の自然条件を生かしてさまざまな農産物が生産されており、2007 年(平成19年)の農業の総生産額は、2,441億円で全国第12位となっている。 大型コンバインによる収穫では、農業産出額の割合(2007年)のうち、米(コメ)が全体の4割以上を占めている。ほかにも、サヤインゲンやキュウリ、トマトなどの野菜やモモやナシ、リンゴなどの果物をはじめ、全国的に見ても生産量の多い農作物がたくさんある。 県の森林の面積は約97万3千ヘクタールで、県全体の約7割を占めている。全国で4番目の広さとなるこの広い森林を活用して、木材のほか、キノコや山菜などが生産されている。 また福島県の海は、南からの黒潮と北からの親潮がぶつかりあう潮目(しおめ)になっているため、良い漁場にめぐまれており、カツオやタコ、ヒラメなど100種類を超える魚介類が水揚げされる。いわき市周辺では、サンマやカツオ、マグロなどをとる沖合漁業が、相双地方では、ヒラメやカレイなどをとる沿岸漁業がさかんに行われている。また、いわき市には、マグロをとる遠洋漁業者もいる。 県の2007年(平成19年・速報値)の年間商品販売額は、約4兆6,600億円で全国第21位となっている。 県内の中央に位置する郡山市では、交通の便が良いこともあり、商業が盛んに行われている。 県の2007年(平成19年・速報値)の製造品出荷額は、約6兆1,700億円となっている。パソコンなどの情報通信機械が最も多くなっている。
≪参考文献≫
福島県ホームページ
福島県観光ホームページ