ガザ攻撃
出典: Jinkawiki
ガザ地区の基礎データ
■ガザ地区には 150万人以上の人が暮らし、そのうち難民は100万人以上。 ■8ヵ所の難民キャンプがある。 ■人口約150万人に対して面積は363平方キロ(東京都23区の約6割)。縦が約46km、横幅が約6kmから10km。難民キャンプは世界最高の人口密度といわれている。 ■水や電気などのライフ・ラインは、イスラエルのコントロール下にある。よって、パレスチナに固有の水資源に対しても、パレスチナ人は占領者であるイスラエルに料金を払って手に入れなければならない。 ■ガザの失業率は、70~80%。1日1ドルの貧困ライン以下で生活する家庭の割合は85%近くにも達する。多くの子どもたちに栄養失調による中~重度の貧血症状が見られるとのこと。 ■ガザの周囲は、壁によって完全に囲まれている。海は、イスラエル軍によって封鎖されている。空(領空権)も、完全にイスラエルの管理下にある。 ■ガザの出入口は、イスラエルに至る北のエレズ(エレツ)とエジプトとの国境に位置する南のラファの2ヵ所のみ。出入国は、完全にイスラエルのコントロール下にあり、パレスチナ人がガザを出入りする自由はない。急病人であろうとも容赦なし。(参考リンク:治療を拒む検問:パレスチナ・ナビ より)現在、ガザの出入りは完全に封鎖されている。 ■イスラエルは外国人がガザへ入ることも阻止している。ガザに入ることができる外国人は、ごく限られた国連関係者やNGO職員と許可が出たジャーナリストのみ。ガザの現状とイスラエル軍の横暴が目撃されることを極端に恐れるイスラエルは、ガザを密室状態に置いている。
ガザ攻撃
1993年、米大統領クリントンの仲介により、「イスラエルの生存権を認め、テロを止める」条件で、PLO(パレスチナ解放機構)とイスラエルの間に和平協定「オスロ合意」が結ばれた。 PLOはアラファト率いるグループ「ファタハ」を中心として結成された組織で、宗教色はない。 PLOは94年から「オスロ合意」に従って、ガザ地区とヨルダン川西岸の一部の2地域で自治を始めた。 「オスロ合意」では、その後の話し合いで、ガザとヨルダン川西岸を国土とsるパレスチナ国家を独立する予定だった。 しかし、アラファトは独立交渉に失敗したまま、2004年に亡くなってしまった。アラファトの遺志は、「ファタハ」のアッバスが引き継ぎ、自治政府の大統領になった。
パレスチナ人は、ファタハの自治政府の腐敗や、進まない独立交渉に不満を抱き、2006年のパレスチナ評議会選挙で、過激派の「ハマス」に投票し圧勝させた。穏健派ファタハのアッバス大統領の下に、過激派はますイスマイル・ハニーヤ首相の政府が誕生した。
しかし、2007年6月、ファタハと連立政権を作っていたハマスは、ファタハと分裂、内戦状態になり、ハマスはガザを武力で制圧する。パレスチナ自治政府は、ヨルダン川西岸のファタハと、ガザのハマスに引き裂かれた。ハマスはガザ地区から、イスラエルにロケット弾を繰り返し何千発も打ち込んだ。 これに対し、欧米諸国はガザに対する援助を停止。イスラエルは検問所を閉め、ガザを封鎖した。
2008年12月、ハマスのロケット弾に対する報復として、イスラエル軍はガザに空爆を開始した。1週間で450人が死亡。3分の1が子どもであった。 2009年1月には、イスラエルは地上軍を投入した。18日停戦までにパレスチナ人1434人が死亡。民間人は960人、その半分が子ども。意図的に民間人を狙ったとして、国連は調査をしようとしているが、イスラエルは拒否している。
これらのガザ攻撃の過激化には2つの理由が考えられる。
①2006年のレバノンでの戦いで、ヒズボラを武装解除する目的を果たせず、中途半端で戦争を止めたと批判され、与党「カディマ」の支持率が落ちた。2009年2月に控えていた総選挙を睨み、支持率を上げようとしたため。 ②イスラエルを支持していた米大統領ブッシュの任期が残りわずかだったため。
現在は停戦中で、ハマスはロケット弾を撃っていないが、イスラエルの封鎖は続いている。世界からの人道援助物資や、建設資材、建設機器も入ることをイスラエルが許可しないため、ガザの復興は進まない状況である。
◇参考文献
山井教雄『まんが現代史 アメリカが戦争をやめない理由』2010 講談社現代新書
パレスチナ情報センター http://palestine-heiwa.org/feature/about_gaza/