シャクシャインの戦い
出典: Jinkawiki
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シャクシャインの戦い
1669年6月21日、東蝦夷地シラオイのアイヌが、同地域での異変を城下松前に通報してきた。それによると、去る6月14日よりシコツ(現千歳川流域の内陸部一帯)近辺でアイヌたちが和人を襲い、鷹待(鷹をとる人)を初め船頭や水主達を殺害しているということだった。松前藩は、この情報に大いに驚き、23日、その真相を探るべく急慮噴火湾沿岸のクンヌイに数名の家臣を派遣して、同地の「味方蝦夷」(親松前藩のアイヌ)を奥地に忍び込ませて様子を探ろうとした。しかし、正確な情報をつかめないでいるうちに、7月5日には、遂に西蝦夷地のアイヌ民族も蜂起した旨の通報に接するに至った。松前藩が最も恐れていた事態が発生したのである。これが近世最大のアイヌ民族の反松前藩・反和人の戦いとなったシャクシャインの戦いであった。ところで、このシャクシャインの戦いは、歴史的には二つの段階から成り立っている。すなわち、近世初頭以来のアイヌ民族内部での広範囲な共同体間の争い、具体的には、東蝦夷地・日高沿岸部のシベチャリ(現新ひだか町静内町)地方のアイヌ集団とハエまたはハイ(現日高町の内)地方のアイヌ集団が狩猟場をめぐって争っていた時期と、こうした両集団間の内部矛盾を克服して、東西両蝦夷地のアイヌ民族が一挙に反松前藩・反和人の戦いへと質的な変化を遂げていった時期の二段階である。一般に「シャクシャインの戦い」として知られているのは、後者の段階の戦いである。
西蝦夷地の蜂起のきっかけ
西蝦夷地、特にヨイチ周辺のアイヌやその乙名の言い分によると、彼等が蜂起に参加した直接的なきっかけは、シャクシャインの脅し文句的な内容を含んだ檄にあったが、これはあくまでも一つの契機に過ぎず、その裏には、もっと深刻な事情があったことが分かる。すなわち、松前に行くことは「御法度」となり、和人との交易は、「蝦夷地」内の各商場での交易に限定されるに至ったこと。また、蔵人のアイヌ民族施策によって「無理非道」「押し買」が横暴になったこと。そして、アイヌの講義をはねつけるだけでなく、抗議したアイヌを打ち叩き、アイヌの要求を一切受け入れないことなどから、アイヌの生活は一層苦しくなった。以上のような諸点がそれである。これは、西蝦夷地のアイヌ民族が置かれていた状態であるが、東蝦夷地のアイヌ民族にあっても、ほぼ類似した状態に置かれていたと見てよいだろう。つまり、上記のような諸問題は、その地域によって濃淡の差はあれ、商場が設置された地域のアイヌ社会に共通して見られた現象であったと推測される。とはいえ、現存資料では残念ながら、ソウヤから知床半島に到るオホーツク海沿岸部のアイヌ民族の具体的様相については知ることはできなかった。
松前藩
「蝦夷管領」安東氏の家臣であった蠣崎氏は、1457年のコシャマインの戦い以後、「北の戦国時代」ともいわれる戦乱期を通して「渡党」の統一者となり、豊臣政権下で安東氏から自立し大名としての地位を固めた。さらに秀吉の死後、徳川家康の臣下となった慶広は姓を松前と改めることで、南道和人地の領地であることを宣言することとなった。そして1604年には、征夷大将軍となった家康から「蝦夷交易の制三章」を記す「黒印状」を下賜され、ここに松前藩が成立し、幕藩体制の一員となった。この松前藩の大きな特徴に「無高」がある。米を作るには寒冷地すぎて困難であったことによるが、無高といっても一万石格の大名、時期によっては大名より格下の交代寄合の待遇ではあったが、幕府に対して軍役を果たしており、また、おおむね6年に一度という変則であるが、参勤交代の義務もあり、その点では他の大名と変わるところがなかった。しかし「無高」であるがゆえに、藩主や家臣団の経済を成り立たせるためにアイヌ民族との交易独占を必要とした。
シャクシャインの戦いの後の蝦夷地
従来より松前藩は、和人地と蝦夷地の境に関所を設けて往来を取り締まっていたが、シャクシャインの戦い以後は蝦夷地・和人地の区分はより厳格なものとなり、和人の蝦夷地における活動も制約された。
参考文献
アイヌ民族の歴史 榎森進 送風館
アイヌ民族の歴史と文化~教育指導の手引~ 田端宏・桑原真人 監修 山川出版社