ユーゴスラヴィア

出典: Jinkawiki

2011年1月31日 (月) 12:12 の版; 最新版を表示
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ユーゴスラヴィア

第一次世界大戦が終わるまで、ユーゴスラヴィアという国は存在しなかった。1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊したことから、「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」がつくられ、1929年に「ユーゴスラヴィア王国」、1943年に「ユーゴスラヴィア民主連邦」、1946年に「ユーゴスラヴィア連邦人民共和国」、1963年に「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」、1992年に「ユーゴスラヴィア連邦共和国」、2003年2月5日に「セルビア・モンテネグロ」と改称し、ユーゴスラヴィアの国名が消滅した。


チトーの独裁

ユーゴスラヴィアは、第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領された。しかしヨシップ・チトー率いるパルチザン部隊が激しく抵抗し、自力でドイツからの解放を勝ち取った。イギリスほかの連合国が、ロンドンに置かれたユーゴスラヴィアの亡命政府とパルチザンとの間を調停し、大戦が終結する頃には、チトーとパルチザンがユーゴスラヴィアを統轄する存在として認められるようになっていた。戦後にチトーを首班とする連立政府が成立し、6つの共和国からなる連邦国家「ユーゴスラヴィア連邦」が樹立された。セルビアにはさらに二つの自治州があった。以後、チトーは死を迎える1980年まで、一党独裁を続けた。


ユーゴスラヴィアの解体

チトーの死後、1980年代は、6共和国と2自治州の代表からなる連邦幹部会の集団指導体制か機能した。しかし経済危機に陥ったことをきっかけに共和国間、民族間の対立が深まった。そして、1980年代後半にヨーロッパの社会主義体制が崩壊に向かうと、1990年に自由選挙を行ったが、それを機に民族問題が噴出した。


ユーゴスラヴィアの特徴

旧ユーゴスラヴィアはバルカン半島の北西部の大半を占める多民族連邦国家であった。連邦を構成していたのは、北からスロベニア共和国、クロアチア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、セルビア共和国、モンテネグロ共和国、マケドニア共和国の六つであり、セルビア共和国内には二つの自治州、ボイボディナ自治州とコソボ自治州があり、大幅な自治権を認めていた。主要民族は、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人、モンテネグロ人、ムスリル人、マケドニア人の六つだが、、ムスリル人は1971年に初めて公式に認められた民族である。また、コソボを中心に居住するアルバニア人は、1981年の国勢調査によれば人口比で旧ユーゴスラヴィア第五位の民族であり、モンテネグロ人の三倍の人口を擁していたが、旧ユーゴ時代を通じて主要民族としては扱われていなかった。公用語はセルボ・クロアチア語、スロベニア語、マケドニア語の三つと分類されるが、旧ユーゴスラヴィアの解体によって、セルボ・クロアチア語は、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語などとそれぞれ異なった言語とみなされるようになっている。この他にもアルバニア語など、多くの自治州の公用語があった。主要な宗教は三つあり、クロアチア人とスロベニア人に多いカトリック、セルビア人、モンテネグロ人、マケドニア人の東方正教会、ムスリル人のイスラム教である。アルバニア人に多いのはイスラム教であるが、カトリックなどキリスト教徒もいて、必ずしも宗教が民族意識の核になっていない。文字は二つ、英語とほぼ同じラテン文字とロシア語に近いキリル文字があり、ラテン文字はカトリックの地域で、キリル文字は正教の地域で使われていることが多いが、若いセルビア人などは両方を使うことが多い。このように、旧ユーゴスラヴィアの特徴を一言でいうならば、民族的、宗教的、言語的、文化的な驚くべき多様性であった。

出典

Wikipedia ユーゴスラヴィア

世界の歴史大図鑑 アダム・ハート=デイヴィス(総監修)樺山紘一(日本語版総監修)河出書房新社

ナショナリズムを越えて~旧ユーゴスラビア紛争下におけるフェミニストNGOの経験から~ 江口昌樹 白澤社(発行) 現代書館(発売)


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