坂本竜馬と近江屋事件
出典: Jinkawiki
坂本龍馬略年表
1835年 土佐郷士・坂本八平の二男として高知に誕生する。 1846年 母・幸が死去。代わりに姉・乙女が龍馬の世話をする。 1853年 剣術修行のため15ヶ月間の国暇をもらい、江戸に向かう。 1856年 剣術修行のため1年の国暇をもらい、再び江戸に向かう。(翌年1年延長) 1858年 江戸より、土佐に帰る。 1861年 土佐勤王党に参加。 1862年 土佐藩を脱藩し三度江戸へ。 勝海舟の弟子となる。 1863年 姉・乙女に「日本を今一度せんたくいたし申し候」と手紙を送る。 1865年 長崎にて亀山社中(のちの海援隊)を結成する。 1866年 薩長同盟が成立する。 寺田屋事件が起こる 龍馬、妻・おりょうとともに日本初の新婚旅行へ。 1867年 土佐藩が大政奉還を建白。幕府が朝廷へ政権を返す。 近江屋にて暗殺される。
寺田屋事件
事件概要:龍馬が薩長同盟を成立させた翌日、の1866年1月23日の深夜、龍馬の泊まる京の旅籠・寺田屋を幕府の捕吏50~60人が包囲する。龍馬はピストルで反撃し、窮地を脱した。なお、龍馬はこの戦いで左手の人差し指を負傷し、生涯自由がきかなくなったという。 龍馬は事件の前日、つまり薩長同盟を成立させた当日に土佐藩を通して大政奉還のアイディアを幕府に提出。このアイディアは徳川を滅亡させるのではなく、新政府の中に徳川の力を残そうという考えで、平和的に政権を譲渡しようという考えであった。それに対し、薩摩藩・長州藩は、徳川勢力を一掃しようという考えを強く持っていたため、龍馬に大きな不信感を持っていくことになる。 そのような不信感を持ち始めた薩摩藩は、寺田屋事件後に静養を兼ねて、龍馬とその妻・おりょうを鹿児島へ招待。これが、よく耳にするであろう日本初の新婚旅行なのだが、その裏には、龍馬を監視下に置いておきたい西郷隆盛の思惑があった。
近江屋事件
寺田屋事件ののち、龍馬は河原町の醤油商・近江屋を新たな隠れ家に選んだ。近江屋は土佐藩邸の斜め前に位置しており、いざとなったら逃げ込めるし、庭からは裏の寺に逃げ込める脱出ルートもあったという。 1867年11月15日夜、龍馬は近江屋2階の8畳間で、中岡慎太郎と火鉢にあたっていた。その日の午後9時ごろ近江屋の表戸をたたく者がいた。そのものは対応に出た下僕の籐吉に戸津川の郷士と名乗り、名刺を差し出したという。その籐吉をすぐに切り捨てると2階へと駆け上がった。室内は行燈の明かりが1つだけで薄暗かったという。 近視の龍馬には訪問者が敵か味方かとっさに判断がつかなかった。刺客はいきなり、龍馬の額を水平に叩き割った。龍馬は座った状態でこの一撃を受けた。この刀傷は頭蓋骨を割り、脳にまで達していたという。彼は、額を割られながらもとっさに身をひねり、背後に置いてあった自分の刀に手を伸ばした。その無防備な背中に犯人はすかさず、第二撃を加えた。すぐさま振り返り、敵に向き合ったが、抜刀する余裕はなく、第三撃を鞘で受け止めた。だが、この不利な体勢から挽回のしようがなく、額に再び斬撃を受けその後絶命した。
近江屋事件の犯人はだれか
近江屋事件の犯人についてはいくつもの説が存在する。
新撰組犯行説 現場に残された刀の鞘と下駄が新撰組にゆかりのあるものだったことや、犯人が「こなくそ」という四国・松山の方言を使ったという証言から、新撰組の原田左之助を実行犯とする説。 しかし、新撰組の犯行としては物証が多すぎることは不自然であり、新撰組局長・近藤勇は関与を否定。何者かが新撰組に罪を着せるために物証をねつ造したとも考えられる。
京都見廻組犯行説 会津藩・佐々木只三郎を組頭とする幕府の検察組織・京都見廻組を実行犯とする説。 1870年に見廻組の今井信郎が龍馬暗殺犯として実際に逮捕されていることからこの説が最有力視されている。 今井は戊辰戦争終結時に殺害を自供。その28年後に発行された雑誌「近畿評論」のなかでも詳細に告白している。しかし、重罪にもかかわらず1年半で釈放されている点、同じ見廻組の渡辺一郎も殺害を自供し、供述が異なっていることなど、疑問もいくつか残る。
薩摩藩黒幕説 龍馬暗殺の実行犯を薩摩藩が背後で操っていたという説。 先に書いたように、龍馬が土佐藩を通じて大政奉還を実現させようとしたことから、薩摩藩は武力で徳川を討つという口実を失う。しかも、龍馬は将軍・慶喜を新政権の中心に据える人事案を提案。龍馬は薩摩藩にとって急速に邪魔な存在になっていった。そこで、刺客として見廻り組を使い龍馬の命を奪ったというのだ。見廻組の今井信郎が明治時代に1年半で釈放された裏には力をもっていた西郷隆盛の水面下での助命活動があったのではないか。
後藤象二郎黒幕説 ※土佐藩の重臣・後藤象二郎が、金のために龍馬を暗殺したという説。
中岡慎太郎無理心中説
ともに襲撃を受けた中岡慎太郎が新犯人だとする説。
龍馬と中岡慎太郎はともに奔走した同志であったが、次第に意見が食い違うようになった。中岡があくまで武力行使を望んだのに対し、龍馬は徳川の力が必要と主張。
龍馬の案が通れば、今までの運動が無駄になると考えた中岡が龍馬の命を奪い、自責の念から自害したという説。
他にも薩摩藩が伊藤甲子太郎率いる御陵衛士に暗殺を依頼したという説、紀州藩が黒幕となって、新撰組を使った説、薩摩藩と土佐藩の共謀説など多くの説がある。
参考文献 歴史をつくった先人たち―日本の100人 小河原和世・清原伸一著 ディアゴスティーニ・ジャパン 竜馬がゆく1~6 司馬遼太郎 文春文庫
S・K