東条英機

出典: Jinkawiki

2011年2月2日 (水) 14:48 の版; 最新版を表示
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目次

概要

東条英機。日本の第40代目総理大臣。現役の軍人のまま総理大臣に就任した。敗戦後、連合国が行った東京裁判においてA級戦犯とされ、1948年12月23日に巣鴨拘置所にて絞首刑が執行された。享年65。

生い立ちと戸籍に記された誕生日の真実 東条は陸軍大尉の東条英教の3男として、1884年の7月30日に生まれた。3男ではあったが、2人の兄が早くに他界したため、東条は家督を継ぐものとして、両親の期待を一身に受けて育てられた。  しかし、実は東条は出生後すぐに里子に出されている。兄たちの死因が母親の使っていた化粧品に含まれる鉛毒を吸ったためと判明し、丈夫に育つまで乳母に預けられた。5ヶ月後に医師によって順調に育てられていることが確認されると、この時初めて英機と名づけられ、役所に出生が届けられた。東条の戸籍上の誕生日が12月30日となっているのはそのためである。

陸軍入隊と軍歴 ==

明治38年(1905年)3月に陸軍士官学校を卒業、同年4月21日に陸軍歩兵少尉に任官。明治40年(1907年)12月21日には陸軍歩兵中尉に昇進する。 大正4年(1915年)に陸軍大学校を卒業、陸軍歩兵大尉に昇進。近衛歩兵第3連隊中隊長に就く。大正7年(1918年)には長女が誕生、翌・大正8年(1919年)8月、駐在武官としてスイスに赴任。大正9年(1920年)8月10日に陸軍歩兵少佐に昇任、大正10年(1921年)7月にはドイツに駐在。大正11年(1922年)11月28日には陸軍大学校の教官に就任。大正12年(1923年)10月5日には参謀本部員、同23日には陸軍歩兵学校研究部員となる。 大正13年(1924年)に陸軍歩兵中佐に昇任。昭和3年(1928年)3月8日には陸軍省整備局動員課長に就任、同年8月10日に陸軍歩兵大佐に昇進。昭和4年(1929年)8月1日には歩兵第1連隊長に就任。昭和6年(1931年)8月1日には参謀本部編制課長に就任。昭和8年(1933年)3月18日に陸軍少将に昇任、同年8月1日に兵器本廠附軍事調査委員長、11月22日に陸軍省軍事調査部長に就く。昭和9年(1934年)8月1日には歩兵第24旅団長に就任。昭和10年(1935年)9月21日には、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任。昭和11年(1936年)12月1日に陸軍中将に昇進。  昭和12年(1937年)3月1日、関東軍参謀長に就任する。この年、日中戦争が勃発すると、東条自身も戦地に赴き、察哈爾作戦の指揮を執った。これが東条の最初で最後の実戦であり、目覚ましい戦績を残した。これ以降、東条は政界へと進出していく。


東条の政界進出、そして現役軍人宰相へ

昭和13年(1938年)5月、板垣征四郎陸軍大臣の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就く。昭和15年(1940年)7月22日から第2次近衛内閣、第3次近衛内閣の陸軍大臣を務めた(対満事務局総裁も兼任)。 1941年(昭和16)年、近衛内閣が総辞職した際に東条自身も官邸を去る準備をしていた。しかし、昭和天皇からお呼びがかかり、首相就任と組閣を命じられたという。これがいわゆる大命降下である。


開戦と東条内閣の退陣

アメリカ側の最終提案であるハルノートを受け入れることができなかった日本は、1941年(昭和16)年12月1日に御前会議を開き、対米英戦の開戦を決定。12月8日、日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争の幕が切って落とされた。ミッドウェー海戦で敗れてから戦局は悪化の一方をたどる。それに伴って、東条内閣は民間人を動員し始め、1943年(昭和18)年には学徒出陣が始まった。当時の大学進学率はわか3%にすぎなかったが、その少ない人材でさえも戦地に送り込まなければならなかったほど、日本は切羽詰まっていた。翌年のサイパン島での敗戦を機に東条内閣は退陣した。


東条の自殺未遂

東条は敗戦後、アメリカ軍が自分を罪人扱いにしたら自殺すると周囲に漏らしていた。その言葉通り、アメリカ憲兵が東条を逮捕するために自宅に来た際、心臓に向けて発砲。銃声を聞いたアメリカ兵の応急処置によって一命を取り留めた。当時これは茶番ではないかと噂された。なぜ確実に死ねる頭を狙わなかったのか。それは頭を打つことで悲惨な死に顔を外国人に見られたくなかったからで、死にきれなかったのは屈辱感と怒りとで手元が狂ってしまったからといわれている。


東京裁判、判決と処刑

東條は昭和23年(1948年)11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で、「真珠湾を不法攻撃し、アメリカ軍人と一般人を殺害した罪」で絞首刑の判決を受け、12月23日、巣鴨拘置所(スガモプリズン)内において死刑執行、満64歳没(享年65〈数え年〉)。 東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった[43]。  彼は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば」 「さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき」 「散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは」 「今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ」 という辞世の句を残している。


処刑のその後

東条らA級戦犯の処刑後、その遺体は遺族に返されることなく火葬され、GHQによって太平洋にまかれることになった。遺灰を日本側に返すと神社を作るなどして故人を英雄視するという事態を予想しての判断だった。  しあkし、遺灰の一部は東京裁判で弁護士を務めた三文字正平らによって密かに焼却場から掘り起こされ、静岡県熱海市の興亜観音に秘匿されていた。  1952年4月、日本独立が回復したサンフランシスコ平和条約を機に、遺灰の一部は遺族に分けられた。その後、戦没者の遺族救済を目的とする遺族援護法や恩給法が改正され、遺族年金や弔慰金の支給が認められるようになった。こうした流れを受けて靖国神社は1959年からB・C級戦犯の合祀を開始し、1978年には東条らA級戦犯の合祀にも踏み切り今に至っている。


参考文献

歴史をつくった先人たち-日本の100人 東条英機 デアゴスティーニ・ジャパン       フリー百科事典 ウィキペディア(1月30日閲覧)       ビジュアル日本の歴史 東京裁判・東条英機 デアゴスティーニ・ジャパン

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