ジェームズ・ランカスター
出典: Jinkawiki
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ジェームズ・ランカスター(James Lancaster)
生年1554年もしくは1555年
出生地 イングランド王国ベイシングストーク
没年1618年
死没地 不明
ジェームズ・ランカスターは、16世紀終わりから17世紀初頭に活躍したイギリスの冒険家・商人である。イギリス東インド会社の冒険艦隊提督として成功を収め、東インド会社の幹部に就任し多くの航海計画の立案に携わった。
目次 |
生涯
幼年期・青年期
若年のランカスターについては、あまり知られていない。1554年か1555年にベイシングストークに生まれたと自称している。上流の出として知られ、年端もいかぬうちにポルトガルへ送られて商売の基本を学んだ。当時ポルトガルに住んでいた多くのイギリス人と同様に兵役に就き、コンゴ王国の王位争いでドン・アントニオの側について戦ったと思われる。
再出発と無敵艦隊との戦い
1580年のスペインのポルトガル併合に際しては、すべての資金も現金も失い、難民同然の状態でイギリスへと帰国する。身一つの状態であったが、ポルトガル語の知識が役に立って1587には貿易商人として身を立て、ロンドンを拠点に貿易に精を出す。 翌年の1588年には、武装商船「エドワード・ボナベンチャー」号の船長としてアルマダの海戦に参戦し、イギリス海峡に出陣、祖国防衛の一助となる。
艦隊司令官への任命
1591年、イギリス東インド会社の前身となる商人たちは、東インド諸島との交易をエリザベス女王に願い出て許可を得た。その際、無敵艦隊と勇敢にたたかった経歴と、豊富な商人としての経験を買われてランカスターは東インド諸島へ派遣する探検艦隊の司令官として抜擢される。 同年、「エドワード・ボナベンチャー」は「ペネロピー」「マーチャント・ロイヤル」の二隻を引き連れプリマスを出航、東回り航路で東インド諸島を目指す航海に出発した。
探検航海の失敗
はじめのうちは、航海は順調だった。カナリア諸島に到着し、順風を得てヴェルデ岬へ越え、赤道へと向かっていった。ポルトガルの船とも遭遇したが、難なく拿捕し多くの食糧と物資を得た。 ところが、やがて船員がばたばたと死に始めた。ランカスターの乗る旗艦「エドワード・ボナベンチャー」でも二人が死に、他の多くの者たちも暑気にやられて病気になった。南半球に入るや、雷雨まじりのトルネードに見舞われ、食糧も不足しはじめ、多くの水夫が壊血病の症状を示し始めた。そこで、喜望峰付近のテーブル湾に錨をおろし、三週間も新鮮な食糧を探し求めたが無駄だった。気がつくと、健康な者は200人にも満たず、動けない者の数は50人を超えていた。そこで、「エドワード・ボナベンチャー」と「ペネロピー」の二隻は航海を続けるが、「マーチャント・ロイヤル」は具合の悪いものを連れてイギリスへ帰ることになった。こうして、探検艦隊は二隻になってしまい、その上絶望的に人手不足であった。 さらに悪いことに、二隻が喜望峰を回った途端に嵐に見舞われ、乗組員全員とともに「ペネロピー」号は沈没した。ランカスターは懸命に捜索したが、船も人も見つからなかった。ランカスターの乗る「エドワード・ボナベンチャー」でも、嵐によって死者が続出した。生き残った94人の船員も、無傷の者は一人もいなかった。 「エドワード・ボナベンチャー」はたったの一隻で広大なインド洋を彷徨い、ついにイギリスへ戻ることになった。大西洋の真ん中まで戻ったところで無風状態となり、6週間も海上を漂う羽目になった。風が強まったかと思えば、突然の嵐が起こり、船の帆は吹き飛ばされ、船倉には穴があき浸水して6フィートもの水がたまった。なんとかカリブ海のモナ島に辿り着き、安心したかに思えたランカスターだったが、真夜中に船大工の裏切りにあい、部下たちとともにモナ島に置き去りにされた。 彼らは1ヵ月もそこで生活したが、幸運にもフランス船に遭遇した。救助されてイギリスへ連れて帰って貰ったが、ランカスターと哀れな部下たちがイギリスにもどった時には、出航から3年以上の歳月がたっていた。
こうして、探検航海は失敗に終わった。喜望峰を回った時点で198人いた船員だが、生きて帰れたのはわずか25人だった。そして、持ち帰ったものは何もなかった。しかし、この結果はロンドンの商人に対して「スパイス貿易には重すぎるリスクを負うことになる」ということを証明した。
二度目の探検航海
1600年、イギリス東インド会社が設立されると、ランカスターは探検隊の提督に選ばれた。今度の乗組員は厳選された精鋭揃いで、5隻の船で構成されるなど、前回の反省を活かし用意は周到に行われた。1601年2月、ランカスターは600トンの巨大な旗艦「レッドドラゴン」号に乗り、テムズ川から出航した。 今度の航海では、ランカスターの船では病気は問題にならなかった。前回の反省を活かして、ランカスターは壊血病の対策を発見していたのだった。彼はレモン汁を船に持ち込んでおり、全員に毎朝三匙ずつ飲ませるようにしていた。これによってランカスターは部下の病気を治療し、全員を保護していた。しかし不幸なことに、ランカスターの治療法はじきに忘れられ、壊血病の対策として柑橘類が全ての船に配備されるようになるのは170年以上後のキャプテン・クックの発見を待つことになる。 こうしてランカスターは病気による被害を最小限におさえつつ、1602年、ついにスマトラ島のアチンに到着した。多少のアクシデントはあったものの、彼はついに大量のスパイスを手に入れることに成功した。
1603年、ランカスターは大量の香辛料とともにロンドンへ帰国した。彼はこの功績によってエリザベス女王によりナイトに叙せられた。以後、彼は自ら航海に出ることはなくなったが、東インド会社幹部として多くの航海計画に携わった。
人物
ジェームズ・ランカスターの油彩の肖像画がいまも残っていて、彼の風貌を伝えている。上着のボタンをきちんとかけ、燃え立つような飾り襟をつけて、片手を剣の柄に、もう片方の手を地球儀にかけた謹厳な姿は、典型的なエリザベス女王時代の人物である。彼の日記と残した文章は、粗野な船乗りと厳格な道徳家の両面を示しており、規律にきびしい人として船上でも日々の祈りを欠かさず、いっさいの賭けごとを禁じた。汚い言葉を嫌悪し、神を冒涜したり、だらしない、卑猥な会話をかわすときびしい罰則を科した。しかし、規律を重んじる厳格さはつねに惻隠の情とうらはらだった。ランカスターは弱者を助けるためにはあらゆる手を尽くした。ほかの船長たちとは違って、何十人もの部下が病気や死に屈するのを手をつかねて見ているのを心から嫌った。 船員思いの提督だったランカスターは、日頃から船乗りのかかる病気について、色々な研究をしていた。特に壊血病対策については熱心で、上述のようにキャプテン・クック以前に壊血病対策を発見していたとされている。
参考文献
浅田實(1989) 『東インド会社』 講談社現代新書』講談社現代新書
ジャイルズ・ミルトン[著] 松浦伶[訳](2000) 『スパイス戦争』朝日新聞社
羽田正(2007) 興亡の世界史第15巻『東インド会社とアジアの海』講談社
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