メディチ家
出典: Jinkawiki
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概要
イタリア・ルネサンス時代に栄華を極めたフィレンツェの大富豪・大銀行家の一族。 15世紀前半に市政を掌握、富の獲得と文芸の保護に努め、ルネサンスの中心となった。
メディチ家の紋章
メディチ家の紋章は金地に数個の赤い球を配したもので、極めてシンプルかつ即物的な家紋である。その由来については二つの説がある。ひとつは「メディチ」(Medici)の家名が示すように、メディチ家の祖先は医師(単数medico/複数medici)あるいは薬種商であり、赤い球は丸薬、ないしは吸い玉(血を吸い出すために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。もうひとつは、銀行業により大富豪になったことから、貨幣あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である。
起源
メディチ家の起源は不明。一般的な推測として、メディチ家はフィレンツェ近郊のムジェッロの出身であったといわれているが確かな史料は存在しない。
登場
メディチ家がフィレンツェにおいて表立って登場したのは、13世紀前半である。 フィリーニョ・デ・メディチの『備忘録』によるとメディチ一族は12世紀後半には、すでにフィレンツェの中心部、メルカート・ヴェッキオ(旧市場)のすぐ近くに館をかまえ、両替商を営んでいたと記されている。 メディチ一族が都市の公的記録に最初に登場したのは、評議会議員として記録されるボーナジュンタである(1216年)。次いで、1240年にはボーナジュンタの二人息子(ウーゴとガルガーノ)が宮廷伯グイド・ヅエッラの債権者の一人として登場する。これ以後、メディチ一族は修道院の貸付人や、フィレンツェ軍の将官などとして、その名を残している。
経済活動
メディチ一族は、代々の家業である銀行業(高利貸業)により、経済的力量と財産基盤を拡大していった。13世紀までは、一族が結束して銀行業で利益を上げ、14世紀になると、ボーナジュンタ、キアリッシモ、アヴェラルドを始祖とする一族の分家がそれぞれ分散して活動し、業績には差が生じるようになった。
メディチ一族は銀行業を行うと同時に、教会への積極的な寄進活動やパトロン活動をおこなった。その財力と名声はフィレンツェにとどまらず、ヨーロッパを股にかけるほどとなった。
君主への台頭
メディチ家は大銀行家となったにとどまらず、名実ともに専制君主となり、フィレンツェとトスカーナに君臨した。メディチ家で初めてフィレンツェ公となったのはアレッサンドロ・デ・メディチであった。彼は、教皇クレメンスが死去すると専制君主的な独裁を行った。アレッサンドロが暗殺されると、コジモ・デ・メディチが自らフィレンツェ共和国の国家元首となり、アカデミーや図書館の開設などを通して、ルネサンス発展に大きな功績を残した。フィレンツェの最繁栄期にはロレンツォ・デ・メディチが専制君主として君臨すると同時に多数の芸術家や人文主義者を保護し、イタリア・ルネサンスの最盛期をもたらした。
参考文献
・『メディチ家』 森田義之著
・山川『世界史B用語集』