太原雪斎

出典: Jinkawiki

2011年2月3日 (木) 16:19 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

太原雪斎

今川家強大化の功労者

 太原雪斎は、両親ともに今川家譜代の重臣の家柄に生まれた。出家し、寺院で修業中だった雪斎は、当時の今川家当主である義元の父・今川氏親から、義元の養育を依頼される。  これが、雪斎が生涯仕える義元との出会いであったが、そのとき義元は出家しており、雪斎はのちに自分が今川家の隆盛を支えることになるとは思わなかったに違いない。義元と雪斎はただ僧侶としての修業に勤しんだ。  やがて、この二人に転機が訪れる。氏親の跡を継いだ義元の兄・氏輝が早くに死亡したのだ。家督を継ぐことを要請された義元は還俗したが、同様に出家していた異母弟も還俗し、家督争いに発展する。  家督争いで雪斎は義元の家督相続に活躍。そのおかげで、義元は晴れて今川家当主の座につくことができたのだった。  多大な功績をたてた雪斎を義元は深く信頼し、以後雪斎は義元の右腕として軍事、内政、外交と多岐にわたって辣腕をふるうことになった。  また意外かもしれないが、雪斎は武にも秀でた人物で、総大将として軍勢を率いて活躍したこともある。

今川家にとり惜しまれる死

 雪斎の一番有名な功績は、「甲相駿三国同盟」が結ばれるにあたって、大いに尽力したことだろう。甲相駿三国同盟とは、駿河、甲斐、相模それぞれを本拠とする有力大名の今川家、武田家、北条家が結んだ同盟である。  この同盟は三者ともにメリットを享受できる素晴らしいものであった。お互いが隣接するため、ほかの2家に対して備えずによく、それ以外の敵対勢力に傾注できるのだ。だがこの3家は、争ったり、組んだりとそれぞれに遺恨がある間柄でもあった。この3つの家のあいだで話をまとめるのは、並大抵のことではなかっただろう。しかし、雪斎の尽力で話をまとめることができ、同盟は結ばれたのだ。  同盟のおかげで今川家は後顧の憂いなく、尾張方面へ進出できた。武田家も信濃方面へ、軍を進めることができ、北条家も関東へと押し出していくことが可能になったのだ。  雪斎はこの同盟締結の翌年、死亡する。さらに翌年には「桶狭間の戦い」で義元が討死し、それからの今川家は衰亡の一途をたどることになってしまう。こなれば、武田家、北条家の背後を今川家が守れないため、同盟も意味をなさないようになった。  雪斎の成し遂げた最後の大仕事は、わずかの年月で崩壊し、今川家は、かつての同盟者にまで浸食されるようになる。  もし、雪斎がいれば、今川家の急速な衰亡に多少はブレーキをかけられたかもしれず、その死は今川家にとって計り知れない損失となったのだった。


参考文献

カラー版徹底図解戦国時代 新星出版社

戦国武将完全ビジュアルガイド 株式会社カンゼン


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成