ウラルの核惨事
出典: Jinkawiki
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要約
1957年のマヤーク核施設で起きたタンク爆発事故は、86年のチェルノブイリ原発事故が発生するまで、旧ソ連で最大の放射能汚染事故だった。が、ソ連ではすべてが秘密にされた。 核開発でソ連をリードする米国の中央情報局(CIA)は、59年にこの事故を知った。しかし、57年に英国ウィンズケール(現セラフィールド)で起きた軍事用原子炉の大事故や米国内の核工場での事故などもあり、「自国の核開発の足かせになっては」と、米政府も秘密を保った。 「ウラルの核惨事」「キシュティムの事故」として世界に知られるようになったのは76年。英国に亡命したソ連の生物学者ジョレス・メドベージェフ博士が、科学雑誌に暴露したのがきっかけである。ソ連政府は89年、ペレストロイカが進む中で、ようやく正式に事故を認めた。 事故では従業員や住民被害のほかに、マヤーク敷地内の除染作業などに従事した、全国各地から招集の兵士2万人以上も被曝した。
原因
事故原因は、放射性物質による核分裂反応でタンク内の温度が上昇しながら、そのタンクを周りから冷やす冷却装置が働かず、暴発した。
被害 その放射能汚染事故とは、1957年9月29日、マヤーク核施設にある放射性廃棄物の貯蔵タンクが爆発。中にあった七十~八十トンの高レベル廃棄物が爆発の勢いで上空千メートルまで舞い上がって風下の北東に流れ、広範な地域を汚染した。 大気中に飛び出した放射能量は、チェルノブイリ原発事故時の四〇%に当たる約七十四万テラ(10の12乗=一兆)ベクレル。うち九〇%がマヤーク施設内に落下し、残り約七万四千テラベクレルが村や畑、川や湖、森などに降り注いだ。 ストロンチウム90などによる風下地区の汚染は距離にして約三百キロ、面積にして二万三千平方キロメートル以上に及んだ。マヤーク敷地外の最汚染地域の被曝(ばく)線量は、毎時六ミリシーベルト。その場に一時間いるだけで、一般人の年間線量限度(一ミリシーベルト)の六倍にもなる強さだった。 だけど、人体実験として、残された村の人々は、放射能に汚染された食品を摂取して国際的な医学専門誌ランセットなどに掲載された学術調査報告によると、ベラルーシ市内でチェルノブイリと遠くの地域よりも近い地域では甲状腺がんがはるかに多く発生している。 放射線にさらされる子供の首に残っている赤いマークを言いますが、甲状腺がんの摘出に伴う手術の跡がネックレスのようなことからビロトハンダ。また体の成長に必要な甲状腺機能低下症が節制された子供たちは、甲状腺機能の代わりをする薬を一生飲まなければならない。
事件以後
村の人々が、何年前からロシア政府に、カラボルカ村を汚染地域に認定し、補償金を出すように要求を続けている。だが、その見通しは立っていない。
http://www.chugoku-np.co.jp/abom/nuclear_age/former_soviet/010930.html http://apsan.tistory.com/536