湾岸戦争3

出典: Jinkawiki

2011年8月10日 (水) 12:04 の版; 最新版を表示
←前の版 | 次の版→

1990年8月2日のイラクのクウェート侵攻に端を発し、翌91年1月に米欧軍を主とする多国籍軍のイラク攻撃によって起こった戦争。「クウェートは歴史的にみて自国の領土である」などといった論理に基づくイラクの侵攻による湾岸危機に対して、アメリカはただちに国連安全保障理事会の開催を求めた。安保理は、イラクの行動を非難するとともにイラクの即時無条件撤退を要求する決議を採択、さらに対イラク経済制裁決議、イラクのクウェート併合不承認決議、イラク空域封鎖決議、対イラク武力行使容認決議などを相次いで成立させた。安保理で米ソが拒否権を使わず一致してこれらの決議に賛成票を投じたのは、冷戦時代にはみられなかったことである。またアメリカ大統領G・H・W・ブッシュは、8月7日にサウジアラビア防衛支援の名目でアメリカ軍の派遣を決定、同盟国、友好国に軍事的・財政的協力を強く要請した。

こうしてアメリカ軍50万を中核とする多国籍軍は、1991年1月17日にイラク攻撃の「砂漠の嵐」作戦を決行し、湾岸戦争の火ぶたが切られた。多国籍軍は、圧倒的な軍事力によってイラク軍をクウェートから撤収させ、続いて、イラクの軍事・産業施設を破壊した。そして2月28日、G・H・W・ブッシュ大統領の停戦命令で、危機発生から210日、戦争勃発(ぼっぱつ)から43日、地上戦突入から100時間で、湾岸戦争は事実上の終結をみた。アメリカ政府は、戦争をきっかけに新世界秩序(New World Order=NWO)構築を掲げたが、その展望は開けなかった。この戦争を要約すると、湾岸におけるイラクの大国主義(覇権主義)に、世界の憲兵を自負するアメリカの大国主義(覇権主義)が過剰に対決し、これを国連の大国主義が追認する形をとったもの、といえる。戦後、フセイン政権は、国連の経済制裁(96年12月、イラクの人道的物資購入のため石油輸出は部分的に解除)で苦境に立ちながらも、アメリカなどとの対決姿勢を保ちつつ存続したが、2003年のイラク戦争で米英両軍の攻撃を受け、ついに崩壊した。

参照:Yahoo!百科事典

ハンドル名:ピラフ


  人間科学大事典

    ---50音の分類リンク---
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                  
                          
                  
          

  構成