羽生城

出典: Jinkawiki

2012年1月9日 (月) 13:31 の版; 最新版を表示
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目次

概要

 羽生城(ハニュウジョウ)は埼玉県羽生市に1546年(天文15年)に築かれ、1614年(慶長19年)に廃城となった。三方を沼に囲まれた平城であったとされるが、現在はその遺構は全く残っておらず、東谷天神社の敷地内に「羽生城址」と書かれた碑と「城橋」の碑があるだけである。約70年間の短い城史であるが、その間上杉謙信ただ一人を主人としていた。城主は広田直繁と木戸忠朝兄弟、自落後は忍城城主成田氏、大久保忠隣であった。

構造

位置

羽生城の面積は24町歩(約24ha)とされ、北は城沼落しより南、南は古河・栗橋県道より少し南で、東は曙ブレーキ工場の西の堀、西は増子幼稚園付近であったとされる。城の東、南、北の3方を沼に囲まれていた。羽生城城郭は、羽生市役所の北方にあった。本丸は東谷地蔵さまの北・曙ブレーキの西あたりで、三の丸は現在の増子幼稚園あたりだとされる。

建築

周りを堀と土塁で囲み、かやぶき屋根の平屋といった簡素なものであった。

城下町

羽生城の城下町は現在のプラザ通りの両側である。現在の町並みは羽生城最後の城主の大久保忠隣時代に作られたとされている。羽生の市日は四・九の日と決まっていて、だるま市や植木市、朝市や夕市があったと考えられている。


歴史・沿革

築城

1546年頃に広田直繁と木戸忠朝の兄弟によって東谷に築かれた平城が始まりだと言われている。蓑沢に広田・木戸の館があったが、川越合戦の後、身の安全を考慮し、東・南・北の三方を沼に囲まれた東谷の平城(羽生城)に移り住んだ。

川越合戦

上州の関東管領上杉憲政が北条氏と戦うために今川義元と武田信玄と同盟を結び、今川・武田は駿河で北条氏を攻め、上杉は北条の持っている川越城を囲み、足利晴氏に力を借りる。そこで、古河公方の足利氏について広田・木戸両氏も川越攻めに参加をした。翌日4月20日の晩に北条氏綱が上杉・足利の連合軍の陣営を夜討ちし、さらに川越城中からも一万数千の兵が切って出たために、連合軍は大敗をした。そこで負けた上杉憲政は越後の上杉謙信のところへ行き、関東管領の役職を譲った。

羽生城と上杉謙信

羽生城は古河公方や、その足利晴氏を1554年に捕えた北条氏に支配されていたが、川越合戦以降関東管領となった上杉謙信が関東へ力を伸ばし、広田・木戸両氏は謙信の家来となり、北条氏の家臣を追い出して、羽生城は謙信の持ち城となった。1560年11月、謙信の小田原攻めに参加した広田・木戸兄弟は謙信から正式に羽生領の支配を認められた。忍城の成田氏が謙信に背いたため、木戸忠朝は謙信の命を受け、皿尾城に移り、岩槻城主太田資正と協力して攻めてきた忍城兵を破った。それから忍城などは謙信に属したり背いたりを繰り返したが、1569年5月頃に謙信と北条氏が和解をし、謙信は広田を館林城主に、木戸を羽生城主にとりたてた。だが、広田直繁は館林城で十分な支配体制を築けぬまま、前城主長尾顕長によって、1570年11月に館林領善長寺で謀殺される。
上杉氏と北条氏の和解後2年たつと北条氏と上杉氏が再び対立するようになると、羽生城は北条氏におびやかされるようになる。1574年4月10日、北条氏に苦戦する羽生城を救援するために謙信は上州大輪に陣をとるが、利根川の水かさが多く渡ることができなかった。食料や弾薬だけでも羽生城へ送ろうとするが、それも途中で敵に奪われ、翌11日の朝に謙信は諦めて陣を引き払った。それを追って北条氏も羽生の地を離れたが、10月の末にまた、羽生城を攻める。その際、謙信はすぐに駆けつけたが、関東の情報センターの役目を果たし、自分の手となり耳となりつくした羽生城を見殺しにはできないと、羽生城を壊させ、兵1000名を上州の善城(勢多郡新里村)に引き取った。木戸忠朝は羽生城棄却の時既に戦死をしていたか、自害していたと考えられている。忠朝の子木戸元斎は上州膳城に、広田直繁の子菅原為繁は山上城に配置され、羽生城を取り戻す機会を願っていたが、叶わなかった。

廃城

その後羽生城は忍城主成田氏に支配され、領地は城の周りくらいで、羽生城兵は忍城兵とともに北条氏の戦いに加わっていた。豊臣秀吉が関東に攻めてきたときには羽生城を捨てて忍城に入るが、その忍城も落城してしまう。小田原城も落城し、関東は徳川家康のものとなる。家康は大久保忠隣を羽生城城主とする。しかし大久保は長男忠常の病死にひどく落胆し、勤めがおろそかになったため幕府から反感を買うようになる。さらに忠隣が最も頼りにしていた大久保長安が亡くなり、様々な罪が見つかり、それが忠隣に及んだ。そして、改易を命じられ、居城小田原城を取り上げられ、近江の国に移り住んだことで、羽生城は1614年に廃城となった。
その後1867年(慶応3年)に、幕府が城跡に約6町歩の陣屋を設けたが、翌年3月に討幕を目指す官軍によって焼き払われてしまい、その際に、羽生城の遺構の全てが消滅した。


古城天満宮

当時天神曲輪であり羽生城の鎮守だった天満宮は、羽生城落城によって衰え、1669年に再興される。再興当時、その場所が古城と呼ばれていたため、古城天満宮と呼ばれるようになった。この場所に城址の碑や、羽生城古図が設置され、羽生城があったことを後の人々に伝えている。


参考文献

羽生昔がたり第4巻 冨田勝治監修 
羽生城を知ろう 子ども郷土資料20 羽生市立図書館編 
羽生城と木戸氏 中世武士選書 3冨田勝治 
埋もれた男、広田直繁 高島邦仁


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