インディアン

出典: Jinkawiki

2012年2月7日 (火) 15:30 の版; 最新版を表示
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1992年にコロンブスが発見した、アメリカ大陸の先住民の名称である。コロンブスが発見した大陸をインドだと勘違いしてこの名がつけられた。現在ではアメリカ・インディアン等の様々な名称で呼ばれている。


前接触期 人口  メキシコを除く北アメリカの人口は800万人から1200万人、最大推定で1800万人 メキシコと中央アメリカには2000万人、南アメリカとカリブ諸島ではそれを上回る人口があり、接触以前の南北アメリカ大陸には、トータルでおよそ4300万人から6500万人の人が住んでいたと推測される。これは当時の世界人口の5分の1にあたる。

始原  アメリカ先住民がいつ、どこからやってきたのかは諸説ある。一般的には、彼らは氷河期の紀元前7万5000年から8000年までの間に何度か表出したベリンジア陸橋を徒歩で渡って北東アジアからやってきたと考えられている。他には、彼らは小さい船を操って太平洋沿岸を下り、途中のところどころに停まって内陸へ入り、中央アメリカと南アメリカに移動したとする海路の説もある。アメリカ先住民自身は、彼らの始原がまぎれもなくアメリカ大陸にあったと信じている。それを表す有名なエピソードとして、マイアミ族族長がトマス・ジェフソンに「もしアメリカ・インディアンがアジアの人々に似ているとすれば、アジアの民がこのアメリカから移住していったのであって、決してその逆ではない」と告げた記録が残されている。

生活 衣食住  沿岸部に住むインディアンは、サケ、貝、鯨などの海産物に恵まれていた。それらは大変豊富にあったので、人々の定住を促進し、人口を維持した。彼らは杉と木の厚板で共同住宅、ロングハウスを作った。その経験により木の加工技術が向上し、カヌーやトーテム・ポール、意匠を凝らした木箱や様々な道具を作った。内陸のインディアンは陸地の動物や様々な植物を収穫し、竪穴式住居等で生活していた。どんぐりに始まり、とうもろこし、豆、かぼちゃなどが主要作物であった。彼らの衣服は動物の皮を使用したもので、狩りは食のためだけではなかった。また部族間のやり取りもあり、必要に応じて物のやり取りをしていた。


社会  彼らの社会は、政治的指導者、宗教的指導者、平民、奴隷(他部族からの捕虜)からなる階層化された社会であった。集落の長は有力な家族から出て、1番大きな集落の長が部族の長を担い、主に部族間交渉の任に当たった。  1000年以降の東部森林地帯では、農耕が主要な生業になったため、他のどの地域より、女性が大きな役割を果たした。女性は出産を通じて生命を創造すると考えられ、女性に内在する霊的な力が敬われた。生命を生む力は、作物を生産する力と関連付けられたため、女性は世帯を管理すると同時に農耕の責任者でもあった。彼女たちは親族に戦死者が出たときは、部族の戦士たちに復讐を宣言したり、鼓舞したり、戦いにおける重要な政治判断にも参加した。男性は大きな動物を狩り、また戦いをした。男女はそれぞれに定められた任務を遂行することによって、彼らの社会に貢献した。その任務は、神によって定められたものと考えられていたため、任務の失敗は霊的な力の欠如と捉えられ、並ならぬ成功は、霊力の源泉からその力を呼び込む能力の証左となった。


後接触期 1492年、クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸を発見、ここからインディアンと西洋諸国の交流が本格化することとなる。

影響 物のやり取り  インディアンたちは、かわうそやビーバーの皮などをヨーロッパ人の目打ちやナイフ、使い古しの布などと交換したり、パンやブランデー、ウイスキーなどの味を覚えたりしていった。酒への免疫がなかったインディアンはアルコールの耐性が全くなくすぐ酩酊したため、ヨーロッパ人は物を交換する際、インディアンたちにわざと酒を勧め、交渉を進めたという。

疫病  もう1つ耐性のなかったものは、天然痘などの疫病である。抗体を持っていなかったインディアンたちの間でこのような疫病が猛威を振るい、やむなく自分たちの土地を捨てるという状況に至った。

入植者  はじめは商人たちの出入りだけだった新大陸は、次第にヨーロッパ人が入植し始め、インディアンと対立していくことが増えていった。ヨーロッパ人にとってインディアンは「残忍な野蛮人であり、未開人」でしかなかったのである。

対立 ヨーロッパ人はインディアンの村を襲い、食料を略奪し始めた。1610年、植民地の住民2人がインディアンに殺されると、事態は一触即発の状況を迎えた。イギリス人は報復手段としてインディアンの村を2つ焼き打ちにし、女や子供たちを虐殺した。不当な略奪に苛立ち、1622年、ポーハタン族は植民地を襲撃して150人のイギリス人を殺害した。イギリス人側の報復も時を待たずに行われ、このとき以来白人はインディアンを殺すためにはいかなる手段をもってしても許されると考えるようになった。 事態はこのような、ヨーロッパ諸国対インディアンというだけでなく、フレンチ・インディアン戦争やアメリカ独立戦争など、ヨーロッパ諸国がインディアンの諸部族を戦力とみなして同盟を結んだために植民地をめぐる争いに巻き込まれた例も多かった。 こうした武力上の対立は、1890年、ウンデッド・ニーの虐殺により、終結した。最終的には推定1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えたという。


同化政策 保留地  19世紀、合衆国政府は、特定の地域に保留地を設定してインディアンたちを閉じ込めた。おおよそ1870年から1920年の間は、強制的な同化主義の時代と呼ばれ、政府はインディアンの文化を破壊し、インディアンを「アメリカ人」にしようとした。保留地は、条約、行政命令、あるいは議会の布告によって設定された。保留地においては、インディアンは農民になり、キリスト教に改宗し、強制的な学校教育によって「アメリカ人」になること期待された。保留地監督官が食料や物資の配給を管理したが、多くの監督官は助けるべきインディアンたちを虐待したり、物資を横領したりすることで悪名高かった。監督官に加えて、軍隊、農民、教師、宣教師や役人たちがインディアンを管理し、再教育するために保留地へやってきた。政府は狩りや戦い、信仰など彼らの伝統の実践をことごとく禁止にした。そのため儀式は、アメリカ人の目に触れないよう地下にもぐったが、見つかれば罰せられた。

ドーズ法  1887年議会を通過したドーズ法は、それ以後の合衆国とインディアン保留地の関係を劇的に変え、1930年までのインディアン製作をかたちづくった。議会はこの法によって、インディアンを独立農民に変え、保留地を最終的になくそうと考えた。この法は保留地の土地の部族共有を消滅させ、インディアン各個人に農具と160エイカー(約650平方キロ)の土地を割り当てた。割り当ての後残った土地は、アメリカ人の農民、牧場主や鉱山主に売り出された。インディアンを搾取から守るため、政府が彼らの後見人となり、25年間政府の許可なく土地の売買をできないようにした。しかし、この保護政策にもかかわらず、1880年から1990年の間に、土地の半分を売るか失うかして、彼らの土地は63万平方キロから32万平方キロまでに減少した。保留地での割り当て地は、狭すぎるか、不毛であるか、または山岳地で、生産的な土地ではなかった。その上、農業の大型産業化が始まり、小規模農業の時代は終わりに近づいていたのも要因のひとつである。

寄宿学校  保留地インディアンをアメリカ社会に同化するためにとられた政策の最たるものは、寄宿学校である。インディアンの、ことに子供たちの教育のための寄宿学校は、1879年、退役軍人のリチャード・プラットによって、ペンシルヴェニアのカーライルに作られた。それから10年の間に同種の学校が、都市にも保留地にも次々にできた。 学校では子供たちは、母語を話すことも、伝統の衣服を着ることも、伝統の信仰もすることも禁じられた。学校は子供たちに、下級事務職や農業や大工のような手仕事や、家事労働を訓練した。そのような技術では、大人になって経済的に恵まれることは難しかった。その反面、算数や英語の読み方といった新しい能力を身につけた子供たちは、保留地を出て、アメリカ社会の仕事で成功するものもいた。

同化政策の失敗 インディアンの利益を図って進められた知識人たちの運動は、1928年、ひとつの衝撃的なレポートの出現によってさらに強固なものとなった。そのレポートとは、メリアム調査委員会が行った調査レポートである。その内容は、市民権を手に入れてから4年たったが(1924年インディアン市民権法制度)、インディアンたちは相変わらずアメリカ市民の中で最も貧乏な暮らしをしている、というものである。肥沃な土地は手放してしまい、ほんのちっぽけな仕事の口も見つけることもできない。家庭内の暴力、アルコール中毒、高い自殺率などが、インディアンの共同体全体の心理的な崩壊を証明していた。メリアムのレポートは、ドーズ法が目指した同化政策が全く失敗だったことを明らかにしたのである。


回復する権力 変わっていく政府・世間  1934年、大統領ルーズベルトと彼がインディアン局長に任命したジョン・コリアによって、1つの重要な法案が可決された。インディアン再組織法である。この法律で、インディアンの保留地を細分化する政策は禁止され、いまだ売りに出されていない土地は、政府によって再譲渡された。また保留地に工場を設置することが許され、そのための貸付金の入手も容易になった。インディアンのために看護人や教師の養成も進められ、インディアン自身が教壇に立つための教育も行われた。部族ごとの集会も再び組織され、移住地における自治も許された。コリアはインディアンの職人技術を促進したり、伝統的な儀式を行うことを許可したりと、インディアンたちが古くから受け継いできた慣習の回復を図ろうとさえした。  第二次世界大戦後、連邦政府はインディアン問題について、負担の軽減を計る道を模索し始めた。政府は保留地の廃止を実行に移し、1954年から1960年の間に61部族の保留地が廃止された。しかし、反対のデモや抗議が相次ぎ、この政策を全部族に適用することはできなかった。1960年代に入ると、インディアンは、当時北アメリカを揺るがした道徳的危機の風潮の恩恵を受けることになった。インディアンは突然、祖先から伝わる伝統の保持者、時代の先を行くエコロジストなどと持ち上げられた。かつてとは全く違い、今度は急に自然と調和しながら生きる人間のシンボルとなってしまったのである。

再び立ち上がるインディアンたち  黒人運動や植民地闘争などが、インディアンたちを励まし、奮い立たせた。過激で戦闘的なものたちは、保留地の中に指定された場所で生きるのを拒否し、自分たちの組織を自らの手で作ることを望んだ。1961年、インディアンの学生たちが全国インディアン青年会議を作って、極貧の部族を守り、条約の尊重を要求し、インディアンの文化を尊重していく方針を打ち出した。全国インディアン青年会議のメンバーたちは、座り込みなど派手な示威運動をして一目をひいた。  活動はさらに展開し、1968年には「アメリカ・インディアン運動(AIM)」が組織された。彼らは警察のインディアンに対する暴力に反対し、都市のインディアンの教育機会や福祉の向上、保留地の伝統文化とのつながり、合衆国の官僚主義や法廷と渡り合う際のインディアンへの司法援助などを求めて運動を展開した。AIMの行った活動で最も有名なのは、首都ワシントンのBIAビルディングの占拠である。全米のインディアンが首都に集まり、政府の条約業務違反を明らかにしようとした。BIAビルの占拠は、もともと予定されていたものではなかったが、占拠は6日間続き、その間700人のインディアンが、政府のインディアンに対するこれまでの不正を暴こうと資料を探し回った。全米メディアはこの事件に釘付けになり、政府の条約違反に是正を求めるAMIの要求に注目が集まった。

前へと進むインディアン問題  1968年の「インディアン公民権法」、1970年にはタオス・ブエブロへの「ブルーレイク返還」等、1970年前後からインディアンに対して有益である様々な立法が制定されるようになる。1972年「インディアン教育法」は保留地内に部族運営の学校を設置するために予算がついた。1975年「インディアン民族自決法」と「教育支援法」は、さらに教育と行政の部族による運営を回復した。1978年「アメリカ・インディアン信教の自由法」はインディアンの宗教の自由を保障、「アメリカ・インディアン子弟福祉法」はインディアンの養子の数を劇的に減少させた。1979年の「考古学的資源保護法」は、インディアンの遺跡の保護を強化させた。1980年の「メイン・インディアン土地請求裁定法」では、メインの先住民の土地の喪失に対して、8000万ドルが賠償され、そのお金で彼は土地の一部を買い戻すことができた。1982年、「カナダ憲法35条」は、カナダの先住民の認定と政府の条約義務を確認した。1988年合衆国は、「アメリカ・インディアン賭博規制法」に沿って、州政府と協議の上だが、連邦承認部族の土地においてカジノの建設を許した。1990年には「ネイティブ・アメリカン墓地保護および返還に関する法」が成立し、連邦の補助を受ける博物館や類する施設は、部族からの請求があれば、収蔵する工芸品や遺骨を部族に返還しなければならなくなった。

現在  上記の通り合衆国、カナダ政府と部族政府の関係の改善は前進しているが、いまだインディアンは多くの困難に直面している。特に自治権、土地権限、文化的サバイバルやアイデンティティの問題は、非常に微妙な点を含んでおり、これからも注意深い議論を必要とされる。インディアン自身も、絶えず変わり行く世界に住んでいく以上、今後も変化に適応して生き残る意思を持つ事が重要である。

参考文献 グレッグ・オブライエン (訳)阿部珠里 2010 アメリカ・インディアンの歴史 フィリップ・ジャカン (訳)森夏樹 1992 アメリカ・インディアン-奪われた大地-


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