湾岸戦争について

出典: Jinkawiki

2012年8月3日 (金) 12:03 の版; 最新版を表示
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中東の石油産出地の権益を守る姿勢を強めたのは、ジミー・カーター元米大統領であった。1979年ソ連軍によるアフガニスタン侵攻などの大事件が続発したため、アメリカは中東の権益を実力で守り抜く姿勢を国内外に示す必要があった。この姿勢は後継者のロナルド・レーガンにも引き継がれ、これ以降アメリカは中近東原油供給国、特にサウジアラビアの防衛に関心を払うようになる。そして、1990年8月、独裁者サダム・フセインに率いられたイラクがサウジアラビアの隣国クウェートに対する軍事侵攻を開始すると、アメリカは全面的な対決姿勢を打ち出してソ連や中国を含む国連加盟国のほとんどを味方につけて、イラクの軍事包囲網を形成した。ところがアメリカは軍事的有利には立ったものの、イラク国内のサダム・フセインの地位はより強固なものとなり、一方当時副大統領で、カーターの意志を継いだブッシュは翌年の大統領選挙で民主党候補のビル・クリントンに敗北を喫することになる。その理由として、ブッシュ政権はイラク戦争の地上戦に勝利し、フセイン政権をイラク国内の反政府勢力によって排除しようとしたため、詰めの甘い結果となり、結果的にフセイン政権の回復する時間をあたえてしまった。なぜ、ブッシュはフセインをあと一歩まで追い込んでおきながら実力行使でのフセイン政権打倒を行わなかったのか、その原因を探っていきたい。一つにブッシュはとても慎重派な政治家で、政治的な決定を行う上での公式手続きを重視する点にある。この視点で考えると、クウェートの解放という当初の目的を達成したためその先のフセイン打倒は文面での決定にないことから、他国からの非難の可能性を示唆したためであると考えられる。またフセイン打倒後、イラク国内のそれまでの支配層だったスンニ派アラブ人と、北部のクルド人、南部のシーア派アラブ人による三つ巴の内戦を勃発させてしまうという予測もブッシュのフセイン打倒を思いとどまらせた。イランと敵対関係にあるアメリカはシーア派教徒が多数を占めるイランとの関係強化を避けたかったためだ。こうしてアメリカは国連と国益という板挟みにあい、それから13年後の2003年3月に、ブッシュ大統領の息子であるジョージ・W.・ブッシュ大統領によって、父の湾岸戦争で行ったものとは正反対の決断を下すこととなる。

参考文献:歴史で読み解くアメリカの戦争:学習研究社:2004年3月30日発行

ハンドルネーム:くろすけ


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