アンコールワット

出典: Jinkawiki

2012年8月9日 (木) 01:44 の版; 最新版を表示
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アンコールワット

カンボジアにある石造大寺院遺跡。古代カンボジア王国(別名アンコール朝。9世紀~1432)の王都に付属した寺院。カンボジア北西部、シェムリアップ市近郊にある。アンコール・ワットとはクメール語で「寺院(によってつくられた)町」の意味。スールヤバルマン2世治下、1113年ごろから約30年かかって建立された寺院である。寺院は、環濠(かんごう)が四周5.4キロメートル、濠(ほり)の幅190メートル、西参道540メートル、三重の回廊、本殿の中央祠堂(しどう)(高さ65メートル)を中心に5基の塔堂から成り立っている。寺院の規模が途方もなく大きいにもかかわらず、クメール建築の整然たる幾何学的平面展開と塔堂の立体的な配置がなされ、調和と円熟を示していて壮大な伽藍(がらん)である。西参道には石畳を敷き詰め、両側にナーガ(大蛇)の欄干が続き、参道を挟んで左右に経蔵、聖池がある。東参道は土塁のまま残され、南北の参道跡もある。寺院建立の思想的背景は、5基の塔堂が世界の中心山須弥山(しゅみせん)(メール山)を、周壁がヒマラヤの霊峰を模し、環濠は深く無限な大洋を象徴するというように、クメール的神の世界(宇宙観)を地上で具現したものである。

この寺院の主神はビシュヌ神であるが、王とビシュヌ神の合体した特別な神像(ビシュヌ神王)が礼拝されていた。当時王は存命中から諡号(しごう)をもち、神の化身と考えられていたし、神の顕在と王の死後の墳墓として建立されたといわれる。墳墓寺院説は、第3回廊が葬送巡礼用と考えられること、中国人周達観の「魯般(ろはん)(アンコール・ワット)の墓」(『真臘風土記(しんろうふどき)』)の記載、参道の西向き(西方浄土)などから出ている。

第1回廊(200メートル×180メートル)には、帯状内壁面に薄肉彫りの巧緻(こうち)な浮彫りが刻まれ、立体的な絵巻物を見るような観がある。題材は、主神ビシュヌとその化身クリシュナ、さらにラーマ王子、神と合体したスールヤバルマン2世などである。西正面から右回りで浮彫り画面を点描するならば、インドの叙事詩『マハーバーラタ』から取材した大戦争絵図(西面南側)、クリシュナが暴風雨から牧人と家畜を守る場面(南西隅塔)、スールヤバルマン2世の偉業をたたえた歴史物語回廊(南面西側)、天国と地獄の場面および死と裁判をつかさどる神魔(やま)天(南面東側)、天地創造に関する乳海攪拌(かくはん)の図(東面南側)、ガルダ(神鷲(わし))の肩に乗り敵を打ちのめしているビシュヌ神(東面北側)、クリシュナと怪物バーナの戦闘(北面東側)、『ラーマーヤナ』から採話したラーマ軍と悪魔ラーバナ軍との熾烈(しれつ)な争闘場面(西面北側)などが見どころである。

これら回廊浮彫りには、構図、描出、図像などの点で精粗の差がみられるが、躍動的な描写と波打つ図像的な表現で、西面と南面の回廊が美術的に優れている。美術手法では、遠方のものを画面上部に重ねていく方法、および複数のものを二重、三重に描き立体感をみせていく技法など、未熟な技量も目につくが、数キロメートルに及ぶ回廊壁面を少しの空白も残さず彫り刻み、その制作意欲はすさまじく、美術手法の巧拙を乗り越え、壁面を手練と技巧により絶妙にまとめている。

3層の盛り土の上に第1回廊が建てられ、さらに十字型中回廊(プリア・ポアン=千体仏)の階段を登り、第2回廊へ少しずつ高くなっていく。内庭を通り抜けると、眼前に急傾斜の大階段が迫り、高くそびえる5基の塔堂と第3回廊へと続く。設計者は、人間の目の錯覚と渇仰の気持ちを巧みに計算しながら、崇高な世界へ導こうとしている。

アンコール・ワットの造営に至るまで、約10回の建築様式の変遷と展開があったが、建築技術の改良や習熟、経験が集積され、美術様式の発展とともにこの大伽藍の建立となった。この建物の壁面の空間を埋め尽くしたあでやかな容姿のデバター(女神)像、(まぐさ)、破風(はふ)などの秀逸な彫刻、列柱や方柱の表面に彫り込まれた精緻な装飾模様、円柱窓や砲弾形の塔堂など、独創的な造形と美術的天分を発現している。莫大(ばくだい)な石材(灰色砂岩)は、北東へ約40キロメートルのプノン・クレーン丘陵の石切場から切り出された。この寺院の建設には数十万人の村人や捕虜が駆り出され、数千人の石屋、石工、彫工、仏師、大経師などの技能集団が動員された。アンコール王都の遷都(1432)後、上座部(小乗)仏教の寺院となり、中央祠堂には5メートルの大きな仏像が安置され、現在まで存続している。

朱印船貿易の時代に日本人がこの寺院に参詣している。墨書跡が十字型中回廊などに14か所発見され、年代は慶長(けいちょう)17年(1612)から寛永(かんえい)9年(1632)まである。参詣者の一人森本右近太夫一房(うこんだゆうかずふさ)(加藤清正の旧臣の子)は、父の菩提(ぼだい)を弔うため仏像4体を奉納したと書いてある。当時の日本人はこの寺院を「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と考えていたらしく、その絵図面は現在水戸(みと)の彰考(しょうこう)館が所蔵し、アンコール・ワットの実測図とほぼ一致する。

アンコール・ワットは、1908年からフランス極東学院により修復が始められたが、1971年から内戦のため中止となり、この内戦で回廊壁面などに銃弾が射ち込まれ、一部が損壊するなど荒廃した。1991年にカンボジア和平協定が調印され、1993年には総選挙、新生カンボジア王国が成立し内戦は終結した。その後、修復、調査研究が進められている。アンコール・ワットは、アンコール遺跡中の白眉(はくび)の寺院であり、最高傑作といわれている。なお、この寺院のあるアンコール遺跡群は1992年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。



参考文献

広辞苑

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  人間科学大事典

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