プロイセン
出典: Jinkawiki
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1701年~1918年にかけて存在した国であり、ホーエンツォレルン家の君主が統治していた。 現在のドイツ北部からポーランド西部を領土とし、首都はベルリンにあった。民族はドイツの民族であるゲルマン人がほとんどであった。 とても短い期間存在していた国だったためその認知度はひくいが強豪な軍事国家でありその実力は多大なものであったといわれている。 前史は非常にながく500年以上もさかのぼる。前史ではケーニヒスベルクとマリエンブルクが政治・経済・文化の中心であり、 ドイツ騎士修道会はマリエンブルクを修道会総長の居城とし、バルト海域の支配的一勢力となった。 プロイセンが建国された時代、ヨーロッパでは国家理性という時代精神がおとずれていた。 これは絶対王政の時代であった全ヨーロッパを批判し、プロイセンのような人工的な理性国家に有利に作用した。 このようなこともありプロイセンは短時間で大国へと成長をとげた。 オーストリア継承戦争と七年戦争という2度の苦しい戦争に耐え抜き1763年のフベルトゥスブルク条約でシュレージエンの領有が確定された。 この後、ナポレオンという強敵の登場により危機も訪れたがブリュッヘル将軍が1815年のワーテルローの戦いでナポレオンを破り再び大国となった。 大国となったプロイセンは1850年には国王ドリヒ・ヴィルヘルム4世が欽定憲法を発布し、 制限選挙に基づく議会が設立され、国民には臣民としての人権が保障された。 その後ヴィルヘルム1世は、ビスマルクらの説得もあり、抵抗しつつもプロイセン王とドイツ皇帝を兼ねた。 結果、事実プロイセン王国はドイツ帝国の中に組み込まれ第二次世界大戦の後、 旧プロイセン王国地域の大部分がソ連とポーランド両国に割譲され、 1947年2月25日の連合国による解体指令により事実名称ともに消滅した。
オーストリア継承戦争
1740年~1748年にかけて神聖ローマ帝国の継承問題を発端に、ヨーロッパの主要国を巻き込んだ戦争でありこれは、カナダやインドでの英仏間の戦争にも発展した。この戦争によって神聖ローマ皇帝位は確立したもののフランスやオーストリア、イギリスにとっては納得いかない結果におわり今後七年戦争発端の原因にもなる。
七年戦争
1756年~1763年にかけて、プロイセンと支援するイギリス対オーストリア・ロシア・フランスなどのヨーロッパ諸国で行われた戦争である。原因はオーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領であったシュレージエンがプロイセンへ帰属したことにある。この結果に納得のいかなかったオーストリア女帝マリア・テレジアは、フランスとの長年の対立関係を解消してフランス、ロシア女帝と結び、プロイセンへの復讐戦を計画した。そして1755年9月に北アメリカでフレンチ・インディアン戦争が始まり、フランスとイギリスとの対立が激化した。これに乗じてオーストリアが対プロイセン戦を決定し、これを察知したフリードリヒ王は、予防戦争として先制攻撃をしかけたのだった。結果はイギリスとスペインがフランス領北米植民地を獲得しプロイセンのシレジア領有が確定しておわった。
参考文献
『図説 ドイツの歴史』 石田勇治 著 河出書房新社
『プロイセンの歴史』 セバスチャン・ハフナー 著 東洋書林