アパルトヘイト政策(南アフリカ共和国)
出典: Jinkawiki
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政策の完成
1991年まで南アフリカ共和国で行われていた人種隔離政策。これが具体的な形となって現れたのは1911年の「鉱山・労働法」である。これは、鉱山で働く白人と黒人の職における区分と人数比を全国で統一する法律で、白人政府が白人労働者の暮らしを守るために打ち出した最初の人種差別法であった。2年後1913年には「原住民土地法」が成立する。これは、人口の70%を占める黒人を国土の9%に指定された「原住民居住地」に住まわせるものである。ここに人種隔離政策の枠組みが完成する。1949年には、白人農民や都市貧困層を支持基盤とする国民党が政権を獲得し、「アパルトヘイト」を推進していった。当時、トイレや公園などの公共施設は白人用白人以外用に区別され、黒人を含む白人以外の人が白人専用と決められているの場所に立ち入った場合は逮捕された。また、異人種間での恋愛や結婚も禁じられた。こうしてアパルトヘイト政策は徐々にエスカレートしていくことになる。
政策の衰退・廃止
こうした南アフリカでの人種隔離政策は、国際社会か厳しく非難されるだけではなく、国内でも多数の反対運動がおこる。それでも政府は武力による弾圧や反対運動の参加者に対する虐殺で抑え込んでいた。1960年、シャープビルでは、「パス法」(白人の居住区域で黒人に身分証の形態を義務づける法律)に反対するデモの参加者に向かって警官隊が一斉射撃を行い、67人が死亡、180人以上が負傷する事件が起きている。 その後も反対運動とその抑圧は繰り返されたが、1989年に就任したデグラーク大統領は1991年に土地法、集団地域法、人種登録法の廃止を宣言した。ここに南アフリカでのアパルトヘイト政策は廃止される。
影響
アパルトヘイト政策の廃止後もその影響は残っている。1995年のある報告書によると、南アフリカの全住民のうち、53%が貧困層とされ、このうちの失業率は50%を超えていた。また人種別にみると、貧困層の約95%が黒人であった。また、2010年に南アフリカ政府が発行した報告書では、全人口の78%も占める黒人のうち、中流層に属するのは僅か8%に過ぎず、白人やインド系、アジア系など他の人種と比較してもその比率は低い結果となっている。アパルトヘイト政策の撤廃から20年。南アフリカ共和国の中では、治安悪化の問題とともに富裕層と貧困層の差の拡大が大きな問題となっている。
参考文献
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/6112/Activity/2001/04_16.html 帝国書院 「最新世界史図説 タペストリー 最新版」