ラテン語
出典: Jinkawiki
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ラテン語はインド・ヨーロッパ語族の一分派であるイタリック語派に属する。この語派に属する方言としては、ラテン語と、それに隣接するファリスキ語のほかにオスク・ウンブリア語Oscan-Umbrianと、異論もあるが現在ではベネト語Veneticが加えられている。それらの碑文の資料はいずれも紀元前数世紀のものだが、ローマの政治力の拡大とともに、すべてラテン語に吸収されてしまった。オスク語は主としてローマの南、カンパニア地方の住民の言語で、紀元79年に火山噴火で埋没したポンペイの町の落書きにもこの言語の跡がみられる。オスク・ウンブリア語はローマの北東、ウンブリア地方の言語をさすが、その主たる資料はグビオの町から15世紀に発見された9枚の青銅板に刻まれた宗教上の規約である。ベネト語の300余の碑文は、ポー川の北部からトリエステに至るアドリア海岸に近い町々から出土したものである。この言語の、ラテン語とオスク・ウンブリア語との関係は明らかでない。 ラテン語は本来、ラティウムLatiumとよばれた七つの丘の地からおこったローマ人の言語だが、その形成に大きな影響を与えたのはギリシア語とエトルリア語である。ギリシア語は、文化的にはるかに優れた先進国の言語であり、ローマの文人のことごとくがこれを熟知し、その文学を範として、詩型に至るまでもそれと同じ型を踏襲したほどであるから、その影響は長くて深い。ラテン人は、深い内容をもつギリシア語の単語をラテン語に翻訳しようと苦心したが、それでも訳しきれずにそのまま借用した形が、近代の諸言語に数多く伝えられている。それらをみるとacademy, gymnasium, philosophy, rhythm, theaterなど学術的な用語も多いが、purple(ラテン語の形はpurpura)、machine(ラテン語mc〔h〕ina「道具」)、lanternなどのように、日常の単語も含まれている。これは文人の手を経たものではなくて、イタリア南部にはシチリアを中心に、非常に早くからギリシアの植民市がつくられていたために、そこで民衆が商売などを通じて直接借用した語彙(ごい)である。 ギリシア語ほど根深くはないが、エトルリア語とその文化の影響もラテン語にとって無視することはできない。ギリシア文字と同じフェニキア系のアルファベットで綴(つづ)られた万余の碑文を資料とするこの言語の全貌(ぜんぼう)はいまだ明らかでなく、その系統も確かではないが、この言語の話し手が、ローマの栄える以前に、その北部で有力な文化を誇っていたことは疑いない。ローマ史家も、前4世紀の末ごろにはエトルリア語の文書がローマの若者たちによって、後のギリシア語と同じくらい学習されていたと述べている。彼らはまずラテン人に、われわれの知っているラテン・アルファベットを供給した。Gaius Julius Caesar, Marcus Tullius Ciceroのような名―姓―あだ名という人名のつけ方は、おそらくエトルリア起源だろうとされている。ローマ人の名称そのものにも、エトルリア系と思われるものが数多く指摘される。そのなかにはCato, Cicero, Pisoなど有名な人々の名も含まれるばかりでなく、ローマという名称そのものもエトルリア起源の可能性がある。ギリシアの新喜劇の伝統を継いで、前3世紀の末から前2世紀にかけて多くの喜劇作品を書いたプラウトスは、当時の生々しい口語の姿を伝えている。 このようにギリシア、エトルリアという大きな文化圏からさまざまな要素を吸収しつつ、ラテン語は、文学に歴史に膨大な量の作品を生んだ古典期の完成された文語に向かって徐々に洗練され、充実していった。前6世紀ごろのものと推定される金のピンに彫られた銘文と古典ラテン語を比較すると、数世紀の間の変化がどのように進んだかを推測することができる。 前3世紀の中ごろに書かれた、正書法の乱れは、古典期の碑文にもしばしばみられる現象であり、そこに当時の話しことばの実態をうかがうことができる。 また、ここまでを古典ラテン語といい、2世紀から6世紀の民衆の話し言葉を俗ラテン語という。 ラテン語から派生したと思われる言語は数多くある。 http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/latin_kokoro.html ブリタニカ国際大百科事典