中華人民共和国2
出典: Jinkawiki
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中華人民共和国
中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく、中国語: 中华人民共和国)、通称中国(ちゅうごく)は、1949年に中国共産党によって建国された社会主義国家。東アジアのユーラシア大陸東部に位置する。首都は北京市。
概要
世界最大の人口を擁する国家である。約13億人という人口は、19世紀末の世界人口(13-15億人と推計)、あるいは、現代の西ヨーロッパ(約4億人)とアフリカ(約10億人)の合計に匹敵する。ただ、中国国内の潜在的な人口は、統計上含まれない黒孩子(ヘイハイズ)や盲民と言われる浮浪民の人口などによって大きく変わり、実数ははっきりしない。人口の94%を占める漢族のほか、チワン族、ウイグル族、モンゴル族、チベット族、回族、ミャオ族、イ(彝)族、トゥチャ族、満族など、政府が認定している55の少数民族よりなる多民族国家である。また人口、国土面積においても世界最大の単一国家である。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ロシア、モンゴル、カザフスタン、キルギス、タジキスタン、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、ミャンマー、ラオス、ベトナムと隣接している。また黄海や東シナ海を挟んで日本や大韓民国(韓国)とも接している。ギネスブックによれば最も多くの国(16ヵ国)と国境を接している国である。
歴史
中華人民共和国成立以前
3000年以上にわたり、幾つもの王朝の興亡を経てきた。漢族の王朝・明が1644年に滅亡し、満州人の王朝・清が最後の王朝として中原王朝の座を掌握した。だが、アヘン戦争(1840年 - 1842年)で清朝がイギリスに敗れると植民地化が始まり、1858年のアイグン条約以降、外満州はロシア領に組み込まれた。日清戦争で日本に敗れたことにより列強による植民地化がさらに進行する。1900年には北清事変を起こし列強に宣戦布告したが八ヵ国連合軍に敗北する[5]。1905年の日露戦争で敗北したロシアは満洲から撤退した。清帝国の弱体化を受け、「滅満興漢」をスローガンとした、満州人の支配に対する漢族の革命運動が各地で起こり、その結果、1911年の辛亥革命を契機として翌1912年に中華民国が成立(直後に清朝は消滅)した。
しかし、その後もイギリス、フランス、ポルトガル、ドイツ、日本などの列強による中国大陸の局地的な支配が続いた他、軍閥による群雄割拠が続いた上に、統一国家の体をなさない混乱状態がしばらく続いた。一方で、ロシア内戦中にはシベリアに軍を派遣し赤軍と連携して駐留日本軍を殲滅したこともある(尼港事件)。また、漢民族は非漢族居住地たるモンゴル・東トルキスタンなどの支配も目論んだが、活発な抵抗運動が行われた。北モンゴルにはソビエトの支援を受けたモンゴル人民共和国が建国された。満洲では権益獲得を図ったがソビエト軍の侵攻を招き敗北した(中ソ紛争)。その後、1930年代の日本の支援を受けた宣統帝による満州国の建国や、その後に発生した日中戦争において中国大陸の多くの部分は日本の影響下におかれ、日中和平を推進する汪兆銘政権により統治され、南モンゴルでは蒙古聯合自治政府による自治が認められた。また、日本からは治外法権や租界などが順次返還された。1945年のソ華友好同盟条約により、旅順・大連・南満州鉄道がソ連に引き渡された[6]。1945年の第二次世界大戦における日本の敗北によって日本が中国大陸から撤退し、中華民国が連合国(戦勝国)の一国として香港・マカオ・旅順・大連などを除く中国大陸を改めて完全統治する体制が整った。
しかし、1930年代から日中戦争を挟んで断続的に行われていた国共内戦において、ソビエトから支援を受ける中国共産党率いる中国人民解放軍がアメリカからの援助を受ち切られた中国国民党率いる中華民国国軍に対して勝利をおさめ、1949年に共産主義政党による一党独裁国家である中華人民共和国を樹立、翌年までに台湾および福建省の一部島嶼を除く中華民国の統治地域を制圧した。なお、国民党政府は進駐中であった日本の領土である台湾島に追われるかたちで政府機能を移転(その後、日本は1952年にサンフランシスコ講和条約に基づき権原を放棄)、その後も国際法上、空白地である台湾島とこれらの島嶼地域は現在国民党政府の実効支配下にある。
中華人民共和国成立後
中華人民共和国は、国家指導者の指導理論や政策などによって、毛沢東時代(1949年 - 1978年)と鄧小平時代以降(1978年 - )の2つの時代に分類することができる。
毛沢東時代の中華人民共和国は、社会の共産主義化を推進した。建国直後の1949年にウイグル侵攻(en)を行いウイグルを占領した。1950年にはチベット侵攻を行いチベットを併合した[7]。1951年にはソ連から旅順港・大連港・南満州鉄道が返還される[6]。1952年には朝鮮戦争に介入し、韓国軍と、アメリカ軍を主体とする国連軍による朝鮮統一を阻止した。毛沢東の指導の下で大躍進政策と核開発を行い、多くの餓死者と被爆者[8]を出しながらも核保有国としての地位を確保する。1959年のチベット蜂起を鎮圧すると、1962年にはチベットからインドに侵攻した(中印戦争)。1974年には南シナ海に侵攻し、ベトナム支配下の西沙諸島を占領した(西沙諸島の戦い)。1969年にはソビエトとの間に軍事衝突が引き起こされた(中ソ国境紛争)。その後、経済の立て直しを巡る対立から毛沢東が文化大革命(文革)を発動し、「反革命」派とされた人々の多くがつるし上げや殺害を受け、国内は内乱状態となった。内モンゴルや満洲の先住民族に対しては内モンゴル人民革命党粛清事件などの粛清を行った[9]。文革は、毛沢東の死と共に終結した。外交ではソビエトと対立するアメリカや日本などの資本主義諸国と国交を樹立し、経済支援を受けるとともに国連安全保障理事会常任理事国となり国際社会に強い影響力を持つことに成功した。その後、華国鋒が毛沢東の後を継いだが、1978年12月の第11期3中全会で鄧小平が実権を掌握した。
鄧小平時代以降の中華人民共和国は、政治体制は中国共産党による一党独裁体制を堅持しつつも、市場経済導入などの経済開放政策を取り、中華人民共和国の近代化を進めた。1979年には中国が支援するポル・ポト政権を打倒したベトナムに侵攻し(中越戦争)、1984年には再びベトナムに侵攻した(中越国境紛争)。1988年にベトナム支配下のジョンソン南礁を制圧した(南沙諸島海戦)。経済の改革開放を進め、「世界の工場」と呼ばれるほど経済が急成長した。一方、急激な経済成長とともに貧富差の拡大や環境破壊が問題となっている。また、政府は、中華人民共和国の分裂を促すような動きや、共産党の一党体制を維持する上で脅威となる動きに対しては強硬な姿勢を取り続けている。1989年の六四天安門事件や2005年の反国家分裂法成立などはその一例である。1989年の六四天安門事件は、民主化要求の大規模政治運動であったが、当時ソビエト連邦(ソ連)ではミハイル・ゴルバチョフ書記長により、経済の自由化のみならず、政治の自由化まで推し進められようとしていたが、鄧小平の自由化は経済に限定されていた。1985年にゴルバチョフが北京を訪れた際、世界はゴルバチョフを賞賛するとともに、鄧小平の改革開放路線を中途半端なものとして批判した。この空気は、国内にもくすぶり、共産党員の中にも「政治開放が必要」との声も上がるほどであったが、その延長線上で天安門事件が起こる。しかし、鄧小平は、天安門広場に集まった学生に戦車と銃を向け「経済は開放しても、共産党独裁は変えない」という強いメッセージを示した。経済の開放を強力に推し進めた結果、全国民の0.4%が国民所得の70%を占有するようになり年々格差が拡大し続けている
経済
2011年の中国のGDPは7兆2981億ドルであり、アメリカに次ぐ世界第2位である。一方、一人当たりのGDPは世界平均より大幅に低い5413ドルである。1日2ドル未満で暮らす貧困層は約2億4300万人と推計されており、世界銀行によって発展途上国に分類されている
参考資料
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD#.E8.84.9A.E6.B3.A8 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/