湾岸戦争とイラク戦争
出典: Jinkawiki
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・湾岸戦争 湾岸戦争は、イラクのクウェート侵攻に反対するアメリカなどが多国籍軍を結成すると、軍事攻撃を行って、イラクを破り、クウェートの解放に至った戦争である。 1990年の8月、イラクは突如、隣に面しているクウェートに侵攻し合併を宣言した。この出来事を“湾岸危機”という。これを受けて、国連安全保障理事会はイラクを非難し、11月には武力行使容認決議が行われた。これを根拠にアメリカを中心として、イギリス・フランス・アラブ諸国を含む多国籍軍は、1991年の1月にイラクへの攻撃を開始した。この作戦全体を指揮したのは、アメリカのノーマン・シュワルツコフ陸軍大将とコリン・パウエル統合参謀本部議長である。多国籍軍は最初、「トマホーク」という巡行ミサイルを利用して、レーダーに捉えられずに低空を飛ぶことで、標的をピンポイント攻撃し、イラクの拠点を徹底的に破壊した。その後完全にイラク・クウェートの制空権を確保した。そして2月には地上戦を開始し、イラク軍を総崩れに追い込んだ。その後まもなくして、イクウェート併合の無効を発表、クウェートは解放され、停戦となった。 湾岸戦争中、イラクは一向に解決への糸口が見つからないパレスチナ問題と結び付けて、イスラーム諸国を巻き込むという戦略に出た。これにより、イスラエルはミサイルで攻撃され苦境に立たされた。 この戦争で、アメリカは圧倒的な軍事力を世界中に見せつけることになった。なぜなら、大規模な戦闘が行われていたにもかかわらず、ほんの少しの損害しか受けなかったのだ。また、日本にとっては外交に大きな転機をもたらしたといわれている。日本は憲法で国際紛争に軍隊を派遣し、軍事行動に参加することは許されていなかったため、主に金銭的な協力をしていたのである。しかし、お金だけ出して危険なことにかかわらなかったと言われた日本は、国際的に批評された。これが原因でイラク戦争では自衛隊を派遣するようになった。
・イラク戦争 湾岸戦争がイラクの敗戦で終了すると、イラクは経済を封鎖され、イラクはますますお金に困るようになった。湾岸戦争は停戦という結果になったが、次はイラク国内で反乱が起こると、フセイン大統領は親衛隊を持ってこれを鎮圧した。すると、アメリカはこれに対し、「クルド人やシーア派の人々を保護する」という名目で、イラク国内にイラク軍機の飛行禁止区域を設定した。つまりそれは、もし侵入してきた場合には、どんな理由であれ撃ち落すということを意味している。さらにイラクには国連から調査が入り、大量破壊兵器やミサイルの廃棄を迫られることになった。 湾岸戦争が終了してから長い間イラクでは、国民の生活は経済制裁によって困窮し、アメリカとイギリスの空爆にさらされながら、100万人以上の市民が犠牲となった。 アメリカがイラクに対し空爆を開始してから、7ヵ月が経った2001年9月11日に、アメリカ同時多発テロが起こった。これに対してアメリカは、アル・カエダと、その庇護国であるアフガニスタンへの攻撃を開始すると宣言すると、アフガニスタンへ侵攻した。その2年後の2003年3月20日、アメリカ・イギリス・オーストラリア連合軍はイラクへの爆撃を開始した。この爆撃は以前から行なっていた爆撃とは違い、明確に侵攻するための攻撃であった。そして4月9日、連合軍によってバグダッドは陥落したが、フセイン大統領の出身地であるティクリートでは戦闘が続いていた。その後14日に、ティクリートも陥落し、イラクは連合軍によって制圧された。しかし、連合軍の目的はイラクの占領ではなくフセイン大統領であったのだが、そのフセイン大統領の行方がわからなくなり、逮捕 ができなくては、戦争の目的が達せられない。イラクでの戦闘は終結したためブッシュ大統領は5月2日、両戦闘共に勝利宣言を出す事が出来ず、イラクと共にアフガニスタンの戦闘終結宣言を行なった。
<参考>
湾岸戦争(1991)-f-anecs
http://www.ffortune.net/social/history/world-today/wangan-senso.htm
イラク戦争
http://reocities.com/ResearchTriangle/network/4110/gulfwar2nd.html
d.d25