楊貴妃

出典: Jinkawiki

2013年8月5日 (月) 03:43 の版; 最新版を表示
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楊貴妃(ようきひ、719年(開元7年) - 756年7月15日(至徳元載(元年)6月16日))は、中国唐代の皇妃。姓は楊、名は玉環。貴妃は皇妃としての順位を表す称号。玄宗皇帝の寵姫。玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれる。古代中国四大美人(楊貴妃・西施・王昭君・貂蝉)の一人とされる。壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性であった。また、音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られる。


生涯

出生

蜀出身。本籍は蒲州・永楽にあったという。蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。6月1日に生まれたと伝えられる。四川省には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。

『定命録』によると、蜀に住んでいた時、張という姓の山野に住む隱士が彼女の人相を見て、「この娘は、将来、大富大貴になるであろう。皇后と同等の尊貴にあるだろう」と予言し、さらに、またいとこの楊国忠の人相を見て、「将来、何年も朝廷の大権を握るであろう」と告げたという説話が残っている。

寿王妃から女冠へ

735年(開元23年)、玄宗と武恵妃の間の息子(寿王李瑁、第十八子)の妃となる。李瑁は武恵妃と宰相・李林甫の後押しにより皇太子に推されるが、737年(開元25年)、武恵妃が死去し、翌年、宦官・高力士の薦めで李璵が皇太子に冊立された。

740年(開元28年)、玄宗に見初められ、長安の東にある温泉宮にて、一時的に女冠となった(このときの道号を太真という)。これは息子から妻を奪う形になるのを避けるためであり、実質は内縁関係にあったと言われる。その後、宮中の太真宮に移り住み、玄宗の後宮に入って皇后と同じ扱いをうけた。

楊玉環は容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な姿態を持ち、音楽・楽曲、歌舞に優れて利発であったため、玄宗の意にかない、後宮の人間からは「娘子」と呼ばれた。『長恨歌伝』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで、体型はほどよく、物腰が柔らかであったと伝えられる。

楊貴妃となる

745年(天宝4載)、貴妃に冊立される。『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられる。『梅妃伝』によると、梅妃という女性と寵愛を争い、これに勝利したという説話が残されている。

父の楊玄淡は、兵部尚書、母の李氏は、涼国夫人に追贈され、また、叔父の楊玄珪は、光祿卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は駙馬都尉に封じられる。さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなった。楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は、詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は、門を並ぶほどであったと伝えられる。

746年(天宝5載)には、嫉妬(玄宗と梅妃との関係によるとする説もある)により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられた。しかし、玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどであった。この時、高力士はとりなして、楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は、太華公主の家を通じて、夜間に後宮に戻ってきた。玄宗は楊貴妃が戻り、その罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられる。それから、さらに玄宗の寵愛を独占するようになった。その後、范楊・平盧節度使安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っている。

天宝7載(748年)には、三人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられた。楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきている。

玄宗が遊幸する時は、楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には、高力士が手綱をとり、鞭を渡した。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いた。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進した。

750年(天宝9載)にまた玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返される。(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられる)。しかし、吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させた。『楊太真外伝』によると、その以降、さらに愛情は深まったとされる。

751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせた。しかしその後も、安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため、醜聞が流れたという。

752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握った。この頃、楊銛と秦国夫人は死去するが、韓国夫人・虢国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなっていった。また、楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなった。

754年(天宝13載)、楊貴妃の父の楊玄淡に、太尉、斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、楊玄珪は、工部尚書に任命される。楊一族は、唐の皇室と数々の縁戚関係を結ぶが、安禄山との亀裂は決定的になってきた。


安史の乱と最期

755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は、土を口に含んで、自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。

756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。玄宗は首都・長安を抜け出し、蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになった。

しかし、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は、楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく、楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。

『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによって、その死は確認され、死体は郊外に埋められた。さらに、安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。

玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となった。しかし、玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また、玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。



死後の評価と後世の楊貴妃像

『旧唐書』『新唐書』ともに伝に評はなく、玄宗を通した間接的なものしかない。また、楊貴妃の生前においては、同じ唐代の武則天にみられたような直接的な痛烈な批判は存在しない。李白が、「清平調詞」「宮中行楽詞」において、楊貴妃を趙飛燕に例えたことは、どのような寓意か定かではない。

しかし、楊貴妃死後、同時代の杜甫が「哀江頭」では楊貴妃の死を悼みながらも、「北征」では褒姒、妲己にたとえて強く批判している。また、白居易や陳鴻も楊貴妃を国を傾けた「尤物」(美女をあらわすが、男を惑わし道を誤らせる存在という意味合いが強い)と評している。これが、当時の士大夫の一般的評価と推測されるが、同時に『長恨歌』によって、美女伝説も生まれていたと見られる。

「長恨歌」の後に書かれた唐代の小説『周秦行記』では、主人公の牛僧孺を出迎える幽霊の一人として登場し、その美貌を称えられながらも、玄宗を「三郎」と呼び、「何度も華清宮に赴く」という批判を加え、代宗の皇后である沈氏を「沈婆」と呼ぶなど気性の激しい女性と描かれている。

楊貴妃自身の実像がはっきりしないことが潤色が加えられる要因と考えられ、また楊貴妃の死後、唐王朝はその勢いを取り戻すことがなかったため、盛唐の時代を象徴する存在である意味合いが強いとされる。

その後、宋代に正史、『開元天宝遺事』、『明皇雑録』、『唐国史補』、『長恨歌伝』、『酉陽雑俎』、『譚賓録』、『開元住信記』などをもとに編纂した『楊太真外伝』にと楊貴妃説話がまとめられ、さまざまな文学によって取り上げられ、清の『長生殿』の成立へとつながり、清代の戯曲を代表する作品となっている。その中では「傾国」の悪女と美女双方の側面を持つ楊貴妃像が描かれている。

現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外は余り問えないと評されていることが多い。


参考サイト

Wikipedia:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E5%A6%83

Yahoo!百科事典:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E5%A6%83%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%9B%BD%EF%BC%89/


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