藤田東胡

出典: Jinkawiki

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1806~55 水戸学者。彰考館総裁として『大日本史』の編集にあたった藤田幽谷の子にあたる。徳川斉昭の側用人として藩政改革にあたり、藩校弘道館を設立。『弘道館記述義』で尊攘思想を説き、水戸学の中心となる。安政の大地震で圧死する。

弘道館記述義

1847年(弘化4)成稿。全2巻。弘道館(1841開館)の建学の趣旨を示した徳川斉昭撰の『弘道館記』(1838成稿)に,その草稿の作成者であった東湖が,命をうけて逐語的に注釈を加えたもので,敬神崇儒,尊王攘夷,忠孝無二,文武不岐,学問・事業の一致という後期水戸学の主要思想が集約的に提示されている。会沢正志斎の『新論』とともに水戸学を代表する著作である。なお,幕末に広く流通した尊王攘夷の言葉は『弘道館記』に始まるもののようである。

原文冒頭

弘道者何。人能弘道也。道者何。天地之大経、而生民不可須臾離者也。弘道之館何為而設也。恭惟、上古神聖、立極垂統、天地位焉、万物育焉。其所以照臨六合、統御宇内者、未曾不由斯道也。宝祚以之無窮、国体以之尊厳、蒼生以之安寧、蛮夷戎狄以之率服。而聖子神孫、尚不肯自足、楽取於人以為善。乃若西土唐虞三代之治教、資以賛皇猷。於是斯道愈大愈明、而無復尚焉。中世以降、異端邪説、誣民惑世、俗儒曲学、舍此従彼、皇化陵夷、禍乱相踵、大道之不明於世、蓋亦久矣。我東照宮、撥乱反正、尊王攘夷、允武允文、以開太平之基。吾祖威公、実受封於東土、夙慕日本武尊之為人、尊神道、繕武備。義公継述、嘗発感於夷斉、更崇儒教、明倫正名、以藩屏国家。爾来百数十年、世承遺緒、沐浴恩沢、以至今日、則苟為臣子者、豈可弗思所以推弘斯道発揚先徳乎。此則館之所以為設也。

解説

弘道とは如何なる義であるか。弘道とは人が能く道を弘めるといふ意である。即ち道を世に弘め、人々に能くこれを実行させることである。然らば其の道とは何であるか。道とは天地に基いた人の大道である。凡そ事物には理法(則)といふものがある。宇宙の万物皆夫々此の理法に順つてゆくことが道である。即ち天地には天地の道があり、人には人の道がある。故に人たるものは、斯の道から寸時も離れることは出来ない。而して我が日本民族としての遵ひ守るべきの道、これ即ち皇道である。謹んで考へるのに、神代に於て、畏くも 天祖天地に基づいて大中至正の道(極)をお立てになつて、斯の国を肇め、斯の国に君臨し、斯の国民を教へ導きなされ、そして後世御子孫がこれを承け継がれるやうに、天業の基をお定めになつた。これによつて、天は高く地は低く、各々其の所を得て安らかに万物皆夫々時を得て完全に生々発育して居る。神皇が世界に照臨し、天下を統べ治められるのに、一として斯の道に由りたまはぬことはない。斯の道によりて宝祚は無窮であり、斯の道によりて国体は尊厳であり、全国民は斯の道により安寧幸福であり、又斯の道の光被によつて諸外国の民までも悦服し同化する。神州の宇内に冠絶する所以、此に存するのである。而して御歴代の 天皇は、畏くも 天祖の立て給うたかやうな立沢な道を以て、これで充分であると御満足なさらず、更に他国の長所を取入れ、斯の道の内容を一層立派なものにすることを楽しみとなされた。乃ち支那の理想時代と謂はれた唐虞三代(尭・舜、夏・殷・周の三代)の政治文化の如き、其の美点を資り入れて皇政上の御参考となされた。是に於て、宇内に冠絶する我が皇道が、愈々大きく、愈々明らかに、愈々善美を極めるに至つた。


参考文献

改訂版「日本史B(A併記)用語集」山川出版社

「藤田東湖正気歌・回天詩・弘道館記 読解」興亜教育会編纂


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