ムッソリーニ
出典: Jinkawiki
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ムッソリーニ(1883年-1945年)とは、イタリア王国の政治家である。第40代イタリア王国首相。イタリア社会党で活躍したのち追放され、ファシズム理論を独自に構築し、一党独裁制に基づいた統治を確立し実践した。
~概要~
青年時代は小学校の教師を務めていた時代もあったが、レーニンとの親交を結ぶうちに政治活動にのめり込み、一方でイタリア軍への入隊や高校教師の資格を得たりしつつイタリア社会党に入党。その後、党機関紙の編集長となり発行部数を2万部から10万部へと伸ばし、この頃から若手の有望格として後々まで呼ばれるようになる“ドゥーチェ”という呼称が用いられ始める。
第一次大戦では主戦論を主張しイタリア社会党を除名させられ(この時、レーニンはイタリア社会党の行為に嘆いたという)、ムッソリーニは右翼的・左翼的思想の両方の影響を受けたファシズム思想を提唱して「イタリア戦闘者ファッシ」を組織し1921年11月に国家(全国)ファシスタ党へ改組、1922年10月にクーデター(ローマ進軍)を実行、当時の内閣は国王に戒厳令布告の署名を求めたが拒否され、逆にムッソリーニへ内閣の組閣を命じ1943年まで約20年に亘り続くファシスト政権が誕生する。(このファシズムは世界各地に波及し、英米仏など後の連合国側にもファシスト政党は誕生し、スペインのフランコ政権、ポルトガルのサラザール政権などが誕生し、“本家”イタリアが大戦の敗北でファシスト政権が幕引きとなった一方で戦後70年代後半まで存続する事となる。)
1939年にドイツがポーランドに侵攻し第二次大戦の戦端が開かれた後も序盤は中立的な態度を取り続けイタリアは戦争に参加しなかったのだが、1940年になりドイツの西方電撃戦により開戦から1月足らずやでフランスの敗北が決定的になった状況を見て腰を上げ、日独伊三国同盟を結び1940年6月に英仏、1941年12月にアメリカに宣戦布告する。しかし戦争実行の為の物資備蓄など準備不足の中大戦への参加を決断した為、継戦能力に乏しく劣勢を余儀なくされ(降伏直前のフランス軍にも反撃され、フランスの降伏が遅ければ逆にイタリアに侵攻されていたとも)1943年には燃料不足で大型艦船の行動が不可能になるなど、贔屓目に見てもナチスドイツの足を引っ張ってるようにしか見えず(同じファシスト政権でも内戦終結後で国力に乏しいと自覚し、ドイツからの参戦依頼も蹴って(枢軸国寄りだが)中立を保ち続けたスペインと対照的でもある)、1943年の連合国によるシチリア上陸作戦後、ついにムッソリーニは失脚・逮捕されるが、ナチス(武装親衛隊のオットー・スコルツェニー)によって救出(グラン・サッソ襲撃)され、事実上ドイツの傀儡政権であるイタリア社会共和国の首班となる。だが1945年4月レジスタンスのパルチザンに捕縛、略式裁判の後28日に銃殺され、遺体は愛人のクラレッタ・ペタッチの死体とともにミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒された。(満61歳没)
~ムッソリーニとヒトラー~
ヒトラーはムッソリーニを尊敬していたが、ムッソリーニは学識や政治経験の差、および外交路線の利害からヒトラーを嫌っていた。ヒトラーとの初会談が行われたが、「血の巡りが悪い男だ」「あんな奴は嫌いだ」と述懐。1934年のドルフース首相暗殺事件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニは友人であったドルフースの暗殺に激怒、ブレンナー峠に王国軍を展開して併合に反対意志を示している。
その後の独伊関係の進展により、ムッソリーニとヒトラーの関係は次第に良好となった。しかしイタリアの敗勢が明らかになるとムッソリーニに対するヒトラーの態度は次第に冷淡になり、1943年の失脚後は完全に格下の扱いとなった。
~人種政策~
ドルフースの暗殺以降、ムッソリーニはファシズムとナチズムの政治的志向の違いを意図的に明確化させるべく、人種政策(特にノルディック・イデオロギーとアーリアン学説)の多くを拒絶し、反ユダヤ主義からも距離を取り始めた。ムッソリーニは人種主義を少なくともヒトラーよりは遥かに敬遠した。彼は人種主義よりも民族主義に重きを置き、民族浄化(イタリア化)による植民地や新規領土の同化を推進した。
参考文献
詳説世界史 改訂版 山川出版社
ムッソリーニとファシズム ポール・ギショネ (著), 長谷川 公昭 (翻訳) 白水社