トルストイ2
出典: Jinkawiki
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トルストイの処女作は進歩派の≪現代人≫誌に1852年に発表された≪幼少時代≫である。自伝三部作の第1部をなすこの作品は、そのみずみずしい感受性と心理的リアリズムで世人の注目をひいたが、続いていくつかの短編、中編を発表して文壇での地位を不動のものとした。その中でも≪コサック≫(1853-63)は、文明に対する自伝の優位というトルストイの持説が物語の中に思想家がはっきりと姿を現している最初の注目すべき作品である。芸術的創作期の頂点の2作品、≪戦争と平和≫(1865-69)、≪アンナ・カレーニナ≫(1875-77)についても同様のことがいえる。 ≪懺悔≫によって示された<回心>以降のトルストイは、神学に関する論文や政治的・道徳的パンフレットに多大の精力を注ぎ、時代の焦眉の急の問題と深くかかわり、さまざまな時事的発言を行った。なかでも日露戦争批判は世界的反響を呼び、日本の社会主義者たちにも多大の感銘を与えた。
生い立ち
伯爵家の四男として、母方ボルコンスキー公爵家の領地だったヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。幼くして父母を失い、叔母たちの後見のもとで育てられたが、外国人家庭教師による教育、貴族の社交に必要な趣味・教育を十分に与えられ、富裕な地主貴族として安穏な生活を送れる境遇にあった。しかし生得の二元性、すなわち<生きる喜び><肉の衝動>を肯定する感受性豊かな楽天的性格と激しい理性的・破壊的な自己反省のピューリタン的傾向が不安と動揺に満ちた一生を彼にもたらした。またトルストイは、自ら語っているように<自分自身に逆らってまでも、常々時流に乗じた勢力に抵抗する>という性格をもっていた。<一般的傾向>を自分の自立性をおびやかすものだと考え、それに抵抗することを自分の行動様式とした。 カザン大学を中退し、農地経営に没頭するが、不首尾に終わると一転して、原始的でルソー的理想を実現しているかにみえるコサックのもとで軍人生活を送り、クリミア戦争( 2853―56)に従軍、その戦争の記録《セバストポリ物語》(18455―56)で国家的栄誉を得る。2度西ヨーロッパに旅行するが、文明の<悪>を実感、ついでルソー風の、<自然>に基づいた農民教育の仕事に力を注ぐ。1862年のソフィア・ベルスとの結婚は充実した創作活動の日々をもたらすが、その一方で内心の虚無感、生の無意味さという観念が彼の心を支配するようになる。 真実の探求者、伝達者として、世界はトルストイの主張に耳を傾けたが、家庭内で自らの主義を実践しようとして妻と衝突し、自分の教説どおりに晩年を過ごそうと家出をしたが、その行半ばにして、中央ロシアの寒村の駅アスターポボ(現在はトルストイと改称)で肺炎のため亡くなった。
日本におけるトルストイ
トルストイが思想家、予言者として世界の注目を集めていた時期は、1980年代から1910年(トルストイの死んだ年)にわたるが、これは日本の明治10年代から明治43年にあたる。1886年(明治19)≪戦争と平和≫の第1編の訳が出版されたのを皮切りに、作品の紹介、翻訳、批評が続々と現れ、トルストイの一語一句、一挙一投足が日本で話題の種となった。トルストイは日本人にとっては明治時代の<日本の>作家であるといってよい。トルストイは単なる作家ではなく、思想家であり、人類の教師、人類の良心として尊敬され、その説く教義や主張は熱狂的に日本の読者によって受け入れられた。明治期にはキリスト教思想、社会主義思想の代表者、大正期には人道主義の予言者とみなされた。やがて文学や宗教思想の面ではドストエフスキー、思想・社会運動の面ではマルクス主義という強力なライバルが現れる。また高弟チェルトコーフによるトルストイの家庭悲劇の暴露(≪晩年のトルストイ≫)、1935年から37年にかけてのトルストイの日記の刊行によってトルストイの実像が赤裸々にさらされるに至る。日記の公表は、正宗白鳥と小林秀雄の<思想と実生活>論争を呼んだが、このころから従来のトルストイ崇拝のうわついた雰囲気が冷まされてくる。しかし社会主義全体への弾圧が強化されていくなかで、拡散した無名のトルストイ主義者たちが、反戦思想を中心とするトルストイ的思想を第2次世界大戦中も守り続けたということにもみられるとおり、ヒューマニズムに徹し、理性、人道、調和の道を求めたトルストイの意義はいささかも小さくなっていない。
参考
世界大百科事典