ホー・チ・ミン

出典: Jinkawiki

2014年7月24日 (木) 14:21 の版; 最新版を表示
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(1890年5月19日-1969年9月2日)ベトナムの革命家、政治家。かつて植民地であったベトナムが戦争を経て独立に至るまで、ベトナム革命の指導者でもある。初代ベトナム民主共和国主席、ベトナム労働党中央委員会主席。 グエン・シン・クン、グエン・タト・タイン、グエン・アイ・クォックなど多くの名を持っているが、ベトナム民からは『ホーおじさん』の愛称で呼ばれることもある。


生い立ちとベトナムの歴史

1890年5月19日、ベトナム中北部のゲアン省にグエン・シン・クンとして生まれる。(グエン・シン・クンと名づけられたが、30年もの間海外で暮らしていた革命家であったためか、30以上の偽名を使い分けていた。ホー・チ・ミンという名は1942年に中国に潜入するために作った名であるという説がある。彼に出生は多くの謎に包まれている。)成長したホーチミンはフエの名門校クォック・ホック学校に入学する。卒業後ファンティエットの小学校でフランス語とベトナム語の教師となる。1911年、フランス商船のコックの見習いとして乗船する。世界各国を渡り歩く。1917年、フランスのパリに住み着き、ベトナムをフランスの植民地から独立させる運動をしているベトナム人グループの中で活動をするようになる。1919年、ベルサイユで開かれていた第一次世界大戦の講和会議にグエン・アイ・コックの名でベトナムのフランスの植民地からの解放のための請願書を提出する。1920年、フランス社会党大会で彼がインドシナ代表として発言し、彼の名は次第に注目を浴びるようになる。その後彼はモスクワへ渡りその後再びアジアへ戻る。1930年2月7日、香港でベトナム共産党を結成。しかしベトナム国内でのストライキや市民による反乱が各地で起こったために、フランス植民地総督府はベトナム人運動化の取り締まりを国内外で強化したためホー・チ・ミンもモスクワへ逃亡しなければならなくなった。1941年2月8日、ベトナム混乱の中30年ぶりに祖国に戻る。同年5月19日、ベトナム独立同盟を結成し。その後ホー・チ・ミンは中国共産党と連絡をとるために中国国境を超えたところで共産主義者の取締りを強化していた中国の蒋介石軍につかまり。1944年に帰国するまで中国国内で投獄されてしまう。1944年10月、帰国してすぐにボ・グエン・ザップ将軍を司令官とした武装隊を結成。1945年5月15日、フエでバオダイ帝を擁立してベトナムのフランスからの独立を宣言させる。1945年8月16日、ベトミンの総決起集会を行い武力による総蜂起を決定します。8月19日、ハノイの政府官舎を占領、24日にはフエでベトミンが権力を掌握し、25日にはサイゴンを掌握。そして9月2日、ハノイのインドシナ総督府前の広場で独立記念式点が開催され、ホーチミンがベトナム共和国の独立宣言を行う。1946年、総選挙でホー・チ・ミンは初代大統領に就任します。しかし、その後フランスによるベトナムの再占領によってインドシナ戦争が起こり、アメリカとのベトナム戦争へと突入。ベトナム戦争の真っ最中1968年、ベトナム人民軍がテト攻勢をかけ戦局的に優勢になった翌年の1969年9月2日、独立宣言と同じ日に、彼は静かに息を引き取る。


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