フランス革命4

出典: Jinkawiki

2014年7月24日 (木) 23:21 の版; 最新版を表示
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目次

背景

革命前の旧体制(アンシャンレジーム)は、三身分からなるきせいの強い社会であった。第一身分(聖職者)と第二身分(貴族)が特権身分として絶対王政を支えていた。彼らは官職を独占し、土地の大半を所有していながら、免税特権を与えられていた。一方、人口の9割以上を占めた第三身分(農民や都市の民衆)は重税にあえいでおり、とくに農民は領主への重い貢租に苦しんでいた。また微税を行った役人はおもに貴族で、彼らの取り分が多く、国家の収入が少ないことも問題であった。18世紀になると第三身分のなかで、資本家的な活動をする富裕な商工業者や大農場経営者などの市民(ブルジョワジー)が急速に栄えた。活動の自由を求める彼らは、貴族の特権や領主制、絶対王政に反発を強めていた。また、特権身分のなかにも、『第三身分とは何か』をあらわしたシェイエスのように啓蒙思想の立場から旧体制を批判する者が現れた。 また戦費などがかさみ、ルイ16世の時代には、国際財政は極度に悪化していた。国王は農業経営を経済の基礎とする重農主義者テュルゴーや銀行家ネッケルを登用して財政改革をめざしたが、貴族や聖職者の抵抗にあたって失敗に終わった。


革命の第一段階

1789年5月、第三部会がヴェルサイユでひらかれると、第一、第二身分と第三身分は決議方式をめぐって冒頭から対立し、第三身分はみずから国民議会と称し、憲法制定までは解散しないことを誓った。特権身分からも同調者が出はじめたので国王もやむなくこれを認め、三部会は国民議会となり、憲法制定議会と名づけられた。しかし、国王は宮廷貴族に動かされて、武力で国民議会を解散させようとしたため、パリ民衆はこれに抗議して蜂起し、7月14日にバスティーユ牢獄を占拠して、国王を譲歩させた。 この情勢に応じて一揆の鎮静化と国政改革開始との一石二鳥をねらった国民議会は1789年8月4日に封建的特権の廃止を決議し、ついで8月26日にアメリカ独立宣言にならって、採択した。 この時期に議会を指導した立憲君主主義者の手で自由主義改革が実現され、1791年には制限選挙制にもとづく立憲君主制の1791年憲法が公布された。


革命の第二段階

しかし、憲法制定直前に、ヴァレンヌ逃亡事件がおきたため、国民のあいだには国王への不信が高まり、このため1791年10月に発足した立法議会では、革命を終結させようとする立憲君主主義者のフイヤン派に対し、共和主義者のジロンド派が形成された。ジロンド派は、内外の反革命の策動を戦争で一気に決着をつけようとし、1792年春に政権につくと、オーストリアに宣戦した。 しかし、ジロンド派の予想に反して戦況は不利となった。この危機に際して、フランス国民の間に愛国心が深まり、8月10日パリの民衆は全国から集まった義勇兵とともに反革命を封ずるためテュイルリー宮殿を襲撃した。立法議会は王権を停止し、憲法を作り直すため普通選挙による国民公会が収集された。


革命の第三段階

1792年9月に成立した国民議会は開会後ただちに共和制の樹立を宣言した。しかし、国民議会内部ではジロンド派とジャコバン派とが対立した。ジャコバン派は、マラー・ ロビスピエール・ダントンらによって指導され、彼らの主張でルイ16世は処刑された。 かねてからフランスの進出を警戒していたイギリス首相ピットは、国王処刑を機に軍事介入へ傾き、フランスが対英宣戦すると、第一回対仏同盟を結成し、フランスを軍事的に包囲した。


革命の第四段階

国民公会の主導権をにぎったジャコバン派は、民主的な憲法を制定し、価格統制や土地改革によって都市民衆や農民の支持をとりつけ、共和歴をつくって人心の一新をはかった。しかし、新憲法の実施は延期され、ロベスピエールを中心とする公安委員会を軸に「恐怖政治」がしかれ多くの王党派・ジロンド派の処刑がつづいた。 しかし、公安委員会の努力で戦局がまたもや好転していくにつれて、統制をきらう商工業ブルジョワや改革で土地を入手した富農のあいだには、「恐怖政治」の解消を願う空気が生まれてきた。他方、ジャコバン派の改革をさらに徹底化させようとした民衆運動は、挙国一致体制を乱すとしてとりしまられたため、彼らも次第にロベスピエールから離反した。 こうして社会的支持を失って孤立したロベスピエールに対して、国民公会内部でも独裁への不満が強まり、1794年7月27日、ロベスピエールは処刑された。


革命の第五段階

ロベスピエール打倒後の公会内では、穏和派が主導権を回復して恐怖政治を解消させ、革命の安定を願って1795年憲法を制定した。ここに制限選挙制にもとづく共和制で、5人の総裁が集団指導する総裁政府が発足する。しかし、ジャコバン派の改革を徹底して私有財産の廃止を目指すバブーフ派の反政府運動を皮切りに、現状に不満な王党派とジャコバン残党・民衆の左右からの攻撃がつづき、そのたびに政府は右や左に動揺して政局は不安定をきわめた。 一方、フランスの軍隊は、1792年から義勇兵が参加したため、貴族士官が支配する旧制度の軍隊とは違った市民的軍隊となったが、総裁政府下に戦況が好転して国外へと進出するにつれて、新しい職業的な軍隊としての制度がととのい、軍部の発言権が増大してきた。 ナポレオン=ボナパルトは地中海を支配してイギリスに対抗するため、エジプト遠征をしたが、翌年イギリスが第二回対仏大同盟を結成すると、独断で急いで帰国し、1799年11月9日、軍事クーデタで総裁政府を倒し、統領政府をつくった。ここにフランス革命は終了した。



参考文献 山川出版社 新世界史 改訂版


  人間科学大事典

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